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About 寺薗淳也

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月探査情報ステーションブログは10周年を迎えました

本日2017年2月9日、この月探査情報ステーションブログは誕生から10年という節目を迎えました。

月探査情報ステーションブログは、月・惑星探査に関する最新の情報をより早くお伝えしたいという考えのもとに作られました。
今でこそ月探査情報ステーションブログは、ブログをベースとしたサイトに変わっています。しかし、2007年当時、そして昨年3月までのサイトは、HTMLファイルがベースとなっていました。情報を掲載するためには、まずエディターなどを使ってファイルを開き、HTMLタグを駆使して記事を書き、それをサーバーへアップロードする(そして、デザインをチェックし、デザインが間違っていたらまたエディターで編集し直し、またアップロードする…の繰り返し)というやり方をとっていました。大変に時間と手間がかかる方式でした。それでも、月・惑星探査の最新情報はこのようにしてなんとか掲載していました。
それでも、2006年には数ヶ月にわたって更新が途絶えるなど、運営が危機に瀕する状況でした。これを打開するべく始めたのがこのブログでした。

最初の記事は、ごくごくシンプルな「ブログ始めました」という内容です。
それから10年、ブログの記事数は800を越え、下書きも含めると1000に迫ろうとしています。1年あたり大体80件、ほぼ4日に1本は記事を書いている計算になります。

月探査情報ステーションブログは、10年の歳月を経て、月探査情報ステーションの理念である、月惑星探査を「すばやく」「わかりやすく」「正しく」伝えるプラットホームとしてすっかり定着しました。メディア記事にあるような速報性ではなく、その記事を深く掘り下げ、関連情報を織り交ぜ、なおかつわかりやすく、まさに読み物としてお読みいただける記事を提供できるよう努めております。
とりわけ、探査機の目的地到着などのときには頻繁に更新を行い、さらに速報性を高める工夫をしております。例えば、2008年の火星探査機「フェニックス」の着陸や、2015年の「ニューホライズンズ」冥王星最接近などのときには、次々と変わる状況をお伝えし、一般的なメディアとは一味違った、専門性が高いが読みやすいメディアとしての速報をお伝えしてきました。
ブログ記事は、速報性にまさるツイッターや、多くの人に浸透しているフェイスブックなどとの連携も行っており、ソーシャルメディアとの相性のよさもあり、その面での浸透も図られています。

一方で、人手不足などの問題もあり、下書きのまま本記事として公開できていない記事が蓄積しており、その数が次第に増えているという問題もあります。とりわけ、いまの状態では編集長が多忙であると記事が増えないという形になっており、この意味で、月探査情報ステーションの理念を理解し、記事を書けるライターの養成(そして、そのライターに報酬を払えるような体制の構築)が強く求められています。この点は、昨年設置した合同会社の運営の中で今後進めていく予定です。
また、古いブログシステムで書かれていた記事は、度重なるシステム移行の際に写真などが移行できておらず、リンク切れなどの状態になってしまっているといった問題があります。これらも今後復旧させていく予定です。
さらに、昨年(2016年)3月のリニューアルによって、新サイトはもともとブログとして使っていたシステム「ワードプレス」を全面的に採用しました。このこともあって、ブログという枠組みではなく、サイト全体で情報更新をすばやく行えるようになっています。今後は「ブログ」という枠組みが各コンテンツに吸収されていくことも考えられます。

ブログというメディアは社会にすっかり浸透してきました。そして、ブログ後のメディアとして、ソーシャルネットワークが一般的になってきました。それでも、これだけの情報を蓄積してきている月探査情報ステーションブログの存在感は圧倒的であり、月・惑星探査の(少なくとも2007年からの)歴史を体現していることを、過去の記事を読み返しながら改めて編集長自身でも改めて感慨深く思っているところです。
これからも、月・惑星探査の歴史、つまり人類の月や惑星へのチャレンジは続きます。月探査情報ステーションブログは、ブログという形から変わっていくとしても、その人類の挑戦を余すところなく、わかりやすく、すばやく、わかりやすく伝えていけるようにしてまいります。皆様におかれましては、引き続きご支援をいただけますよう、お願い申し上げます。

月探査情報ステーション 編集長
寺薗 淳也

2017年2月9日(木)|Categories: 月探査情報ステーション|

ハクト、新たなサポーティングカンパニーとしてミツエーリンクスと提携

今年(2017年)中に月にローバーを打ち上げ、一定走行距離を走行し、画像・映像を地球に送信したチームに賞金を授与するというグーグル・ルナーXプライズ、今年に入ってから最終チームが5つに絞り込まれるなど、徐々に白熱してきています。
このレースに日本から唯一参戦するチーム「ハクト」、ここに新たに、IT企業のミツエーリンクスがサポーティングカンパニーとして参加することを発表しました。

月面ローバー「ハクト」の最終デザイン

2017年打ち上げ予定の月面ローバー「ハクト」の最終デザイン (© HAKUTO/KDDI)

ミツエーリンクスは、ウェブにおけるアクセシビリティ(どのようなユーザーであってもウェブ内容を閲覧・理解できる技術)をはじめ、システム開発、ウェブ構築からアクセス解析などのコンサルティング的な部分に至るまで、ウェブについてのサービスを幅広く提供する企業です。とりわけアクセシビリティ分野ではその高い技術力に定評があります。
今回のミツエーリンクスとの提携は、一見すると月面探査とは関係がなさそうにみえますが、そうではありません。今後増加が予想されるハクトのウェブページ、とりわけオフィシャルストアにおけるアクセシビリティの向上や維持について、ミツエーリンクスが持つ高い技術を提供するとのことです。

今回のサポーティングカンパニー参加決定について、ミツエーリンクスの木達一仁取締役社長(実は編集長は、彼とはもう20年近い仲間であり、同僚であり、よきアドバイザーでありまた目標でもあります)は、同社ウェブページのコラムにて4つの理由を挙げています。

  1.  夢のあるハクトの挑戦に対して会社として応援をしたい
  2.  やはりベンチャーとしてスタートしたミツエーリンクスとして、今回の挑戦にベンチャー企業として参加するハクト(株式会社ispace)を応援したい。
  3.  宇宙開発とIT分野とは実は近い間柄にあり、特に今回のレースはそもそもグーグルという巨大IT企業がスポンサーでもある。
  4.  月、そしてその先へのアクセスを目指すispaceの挑戦と、アクセシビリティという「誰もがどのようなデバイスからもアクセスできる」という幅広さとは共通点がある。

私(編集長)とも長い付き合い、と述べましたが、木達さんはもともと「人力飛行機」の分野からこの世界に入り、宇宙開発分野にも身を置いていました(ですので、私とも一緒に働いていたこともあるのです)。いまでこそIT企業の社長ではありますが、長年にわたって宇宙開発を愛してきました。宇宙開発を知る多くの人は彼の存在をよく知っています。
コラムの中でも、ispaceの前身である「ホワイトレーベルスペースジャパン」に彼が一時期ボランティアとして参加していたことが述べられています。

このようにして、ハクトはいろいろな人の思いに支えられて前進しているのだといえるでしょう。私も、今回の決定を心から歓迎すると共に、同じ宇宙、そして宇宙開発を愛する人間として、ハクトの挑戦を支えていきたいと思います。

なお、今回のハクトのリリースでは、12月末に本サイトで報じた新たなサポーティングカンパニー(ヤマウチマテックス)の参加についても触れられています。

本日(1月31日)現在でのハクトのサポート企業は以下のとおりとなっています。

オフィシャルパートナー

最上位のパートナーで、ハクトと共に月面競争にチャレンジします。

コーポレートパートナー

プロジェクト全体を支援するパートナーです。(6社)

サポーティングカンパニー

ハクトのローバー開発に必要となる、あるいはハクト開発を支える個々の技術を提供します。(15社・団体)

【2月2日 午前11時10分修正】上記記事で、「株式会社ミツエーリンクス」と表記すべき箇所が「ミツエーリンクス株式会社」となっておりましたので修正いたしました(「株式会社」の位置が逆になっておりました)。大変失礼いたしました。

2017年1月31日(火)|Categories: ハクト|

【一部修正】月面着陸競争のグーグル・ルナーXプライズ、日本の「ハクト」を含む最終候補5チームを発表

今年(2017年)末までに月面にローバーを着陸させ、一定距離を走行させたうえで映像・画像を送信した最初のチームに賞金を授与するという技術レース「グーグル・ルナーXプライズ」(GLXP)について、実行チームは24日、最終的に候補となる5つのチームを発表しました。
そしてその中には、日本のチーム「ハクト」も含まれています。

月面ローバー「ハクト」の最終デザイン

2017年打ち上げ予定の月面ローバー「ハクト」の最終デザイン (© HAKUTO/KDDI)

GLXPにはこれまでに16のチームが参戦し、技術を競い合ってきました。しかし、GLXP実行チームは、「2016年末までに、打ち上げロケットを確保できないチームには、その後の参戦を認めない」という極めて厳しい条件を突き付けていました。
これを受けて、ハクトはインドの「チーム・インダス」と組んで、インドのロケット(PSLV)での打ち上げに相乗りすることになりました。
実行チームはこれらの打ち上げ契約などを確認したうえ、今回5つのチームを最終候補として決めたのです。すなわち、優勝賞金2000万ドル(日本円で約22億円)もがかかった壮大なレースの優勝者は、この5つのチームのうちのどれか、ということになります。

  • スペースIL (SpaceIL)…イスラエルのチーム。非営利団体としてチームを運営。スペースX社のファルコン9ロケットを打ち上げ機として確保。チームの目的は教育に「アポロ効果」をもたらし、次世代のイスラエル国民(若者)を鼓舞することだそうです。
  • ムーン・エクスプレス (Moon Express)…アメリカの企業。名前もストレートで、すでに月への物資輸送などについての研究開発を重ねている実績のある会社です。2020年までに月への輸送を3回にわたって行う契約をアメリカの打ち上げ会社と結んでいます。ムーン・エクスプレスは、月資源開発を企業のメインとしており、地球軌道を超えた領域における商業宇宙活動の発展を目指すことを社是としています。
  • シナジー・ムーン (Synergy Moon)…国際協力チーム。インターオービタル社のネプチューン8ロケットを打ち上げに使用します。シナジー・ムーンは15カ国から参加者を集めているチームで、最終的には有人飛行の実施、個人レベルでの衛星打ち上げや低価格での太陽系探査など、野心的な目標を掲げています。
  • チーム・インダス (TeamIndus)…インドのチーム。すでにお伝えしている通り、インド宇宙機関(ISRO)のロケットPSLVを打ち上げに使用します。
  • ハクト (HAKUTO)…日本のチーム。チーム・インダスとの相乗り契約を締結し、PSLVロケットによって打ち上げます。

なお、GLXP発表の文書では、ガイドラインが改定され、これまで2017年末(12月31日)までに打ち上げが完了していなければならない(原文では「completed」)となっていた部分が、打ち上げ準備開始(原文では「initiated」)となったと述べています。
ですので、ハクト及びチーム・インダスの打ち上げが12月28日であっても、条文上は打ち上げ準備をスタートしていれば(その過程で延期になったとしても)GLXPの優勝及び賞金獲得資格を持つことになります。もちろん、他のチームが先に打ち上げていなければ、の話ですが。

またGLXP主催者は、ここまで残ってきた16チームに対し、100万ドル(日本円で約1億1000万円)の「ダイバーシティ賞」を分配すると発表しています(単純計算であれば1チームあたり6万2500万ドル…日本円で約718万円となります)。

この発表を受けて、「ハクト」、及びそれを運営する株式会社ispaceの袴田武史代表はコメントを発表し、草の根の活動から7年経過してようやく最終段階を迎えつつあると心情を発表しました。一方で相乗り先がチーム・インダスに変更されたことで各種設計の変更などがあり、それに追われているという状況も公表し、追加の打ち上げ資金が必要になるとも述べています。これについては「近くクラウドファンディングなどを行うことも計画しています。」と述べており、近日中に何らかの発表があるかも知れません。

レース自体は今年末に向けて一気に盛り上がってくると思いますが、舞台は整いました。各チームの活躍を期待すると共に、その先への展望についても見守っていきましょう。

【1月27日午前11時 記事修正】ダイバーシティ賞の記述について、16チームそれぞれに100万ドルを分配すると書いておりましたが、正確には、16チームに対し100万ドルを分配する形でした。それに合わせ、該当部分を修正しています。失礼いたしました。

2017年1月26日(木)|Categories: ハクト|

宇宙研の月・惑星探査プロジェクトに尽力した飯島祐一氏の名前が小惑星に命名される

今回の記事はやや私(編集長)の個人的なニュースである側面があることを、あらかじめご承知おきください。

JAXAの「はやぶさ2」チームは23日、2012年に亡くなった宇宙研助教・飯島祐一氏の名前が小惑星に付与されたと発表しました。
小惑星番号は120741番、英語名はiijimayuichiです。
今回の小惑星は、「はやぶさ2」チームが見つけたわけではありません。埼玉県入間市のアマチュア天文家・佐藤直人さんが発見した小惑星に、氏のご厚意で飯島氏の名前がつけられたものです。

飯島祐一さんは、名古屋大学(大学から大学院)で博士号を取得、その後宇宙研へ移り、宇宙研の月・惑星探査に精力的に取り組んでこられました。
月探査衛星「かぐや」では開発全般を指揮、自身の数多くの実験などを通した知見から、開発全体や個別の機器開発に多くのアドバイスを与えました。機器開発の経験が少ない固体惑星科学分野の研究者がはじめて開発する月・惑星探査の機会ということで、彼のアドバイスに助けられた方も非常に多かったのではないでしょうか。

しかし、その彼にガンという病が襲います。入退院を繰り返しつつ、それでも進行中のミッションについて気にかけてきました。「はやぶさ2」に関しては、最後に搭載が決まった分離カメラ(DCAM3: 「はやぶさ2」の衝突装置を監視するカメラ)の開発に関して病床から会議に参加したとのことです。病に冒された体を、それでもすべての力を振り絞り、「はやぶさ2」「セレーネ2」(セレーネ2自体はミッション終了となりました)、そして日本の月・惑星探査に、まさにすべての力を尽くしてくださいました。
しかし2012年、闘病、そして周りの方々の祈りも虚しく、44歳という若さでこの世を去りました。

私(編集長=寺薗)は、飯島祐一氏は名古屋大学時代から知っています。当時あった教養部の同じクラスの1年先輩でもあり、私が進学した地球科学科の1年先輩でもあります。
私からみると少しとっつきにくいところもありましたが、学問や実験(彼は月・惑星などのクレーターを再現するための衝突実験を研究対象としていました)に関しての熱意はまさに「すごいもの」がありました。私も学部生として実験のお手伝いをすることもあるのですが、その実験の準備や解析への熱意は本当に学ぶべきところが多々ありました。
不思議な縁で、やがて宇宙研で(といっても、私はすでに宇宙研から宇宙開発事業団に移っていましたが)飯島さんと一緒になるわけですが、その探査への並々ならぬ意欲は私にもしっかりと伝わってきました。
彼が病気に侵されている、ということを知ったのは私が会津に移ってからでした。彼が全人生を込めた、といってもよい「かぐや」がミッションを終え、そしてその次に「はやぶさ2」がやって来る、というその段階で、彼は帰らぬ人となってしまいました。本当は彼自身が開発に心血を注いだ探査機が得た、別世界のデータをみたかっただろう、科学者として解析し、論文を書きたかっただろう、そう思うと、あまりに早い死に私もいまでも涙を禁じえません。

「はやぶさ2」チームによると、小惑星iijimayuichiは、「はやぶさ2」の目的地である小惑星リュウグウよりも外側の軌道を回るそうです。本当の意味で星になった飯島氏が、「はやぶさ2」、そしてその成果をみてくれる、そして安全を見届けてくれると私は信じています。
ここに改めて彼のご冥福を心よりお祈りすると共に、彼が達成できなかった分を私たちが必ず成し遂げると、私自身誓いを新たにしたいと思います。

2017年1月23日(月)|Categories: かぐや, はやぶさ2|

アポロ宇宙飛行士、「最後に月面を歩いた男」ユージン・サーナン宇宙飛行士が亡くなる

アポロ10号、及びアポロ17号で飛行を行い。アポロ17号では月面でのミッションを実施、「最後に月面を歩いた男」と称された宇宙飛行士のユージン・サーナン(ジーン・サーナン)氏が、1月16日(アメリカ中部時間)、テキサス州ヒューストンで亡くなりました。82歳でした。

ユージン・サーナン宇宙飛行士

アポロ宇宙服を着用したユージン・サーナン宇宙飛行士 (Photo: NASA)

ユージン・サーナン氏は、海軍の大佐でもあった方で、生涯に3回の宇宙飛行を行っています。そのうち2回がアポロ計画による飛行でした。また、アメリカ人として2回めの船外活動(いわゆる「宇宙遊泳」)を行った功績により知られています。

ユージン・サーナン氏は1963年10月にNASAにより選ばれた14人の宇宙飛行士の1人です。1966年6月には、トーマス・スタッフォード船長と共にジェミニ9号に乗り組み、地球を周回する3日間の飛行を行いました。その際、サーナン宇宙飛行士は2時間以上にわたる船外活動を実施しています。

1969年5月、サーナン宇宙飛行士はアポロ10号の乗組員として飛行を行いました。
アポロ10号は、その次に続くアポロ11号(人類初の月面着陸を行った宇宙飛行士を乗せたアポロ宇宙船です)のいわばリハーサルの役割を果たしていました。月に着陸しない以外はアポロ11号とほとんど同じ手順を踏んだといってよく、月を1周して地球に帰るというミッションでした。もちろん、着陸しないからといっても、それが大変なミッションであることには変わりありません。
アポロ10号では、ジェミニ9号でも乗り組んだトーマス・スタッフォード宇宙飛行士と一緒でした。スタッフォード宇宙飛行士が船長を、司令船のパイロットは後にアポロ16号で月の土を踏むことになるジョン・ヤング宇宙飛行士、そして月着陸船のパイロットをサーナン宇宙飛行士が努めました。
着陸しないとはいえ、本番そのもののリハーサルですから、月着陸船のパイロットは非常に重要な役割を負うことになります。このアポロ10号によって月着陸船が正常に機能することが確かめられ、その2ヶ月後、アポロ11号によって人類は月面に降り立つことになります。

2007年のインタビューでは、サーナン宇宙飛行士はこう語っています。「いつもニール・アームストロングに(アポロ11号の船長として人類ではじめて月に降り立った宇宙飛行士)言っていたのだが、私たちは上空から月にまで、約15キロの白い線を空に描いていたのだ。彼が迷わず降りるために。だから、あと彼がやることは着陸することだけだった。それを簡単にできるようにしておいたんだ。」

ただ、彼は裏方に徹してばかりではありませんでした。より大きな大役は、彼の最後となる宇宙飛行でやって来ます。
1972年12月、アポロ計画最後の宇宙船として、アポロ17号が打ち上げられます。サーナン宇宙飛行士は、アポロ17号の船長として、最後のアポロ計画を円滑に実行するという、まさしく大役、そして重要なミッションが与えられました。

アポロ17号は、アポロ計画最後ということもあって様々な役割を与えられていました。例えば、月の地質をより詳しく調査するため、初の地質学者の宇宙飛行士であるハリソン・シュミット宇宙飛行士が乗り組みました。彼の地質学者としての目により、着陸点周辺で非常に多くの月のサンプルが回収されました。その総量は約110キログラムに及び、アポロ計画中最大です(なお、アポロ計画全体では約380キログラムの月のサンプルが回収されていますので、アポロ17号だけでその3分の1近くを占めることになります)。
また、月面車による移動もアポロ計画中最長で、その移動距離は約35キロにも及びます。
当時としては最長の宇宙滞在記録(約301時間=約12日半)、月面における最長の活動時間(22時間6分)、月軌道上での最長滞在時間(147時間48分)など、アポロ17号は数多くの記録を打ち立てています。なお、サーナン宇宙飛行士とシュミット宇宙飛行士は、3日以上にわたって月面に滞在しました。

アポロ17号でのサーナン船長とアメリカ国旗

アポロ17号で月面に降り立ち、星条旗と共に写真に収まるユージン・サーナン船長。彼方には地球が写っている。(Photo: NASA)

アポロ17号で楽しそうに月面活動を行う2人の宇宙飛行士の様子は、世界でも話題になりました。

そして、最後に月を去るとき、ユージン・サーナン宇宙飛行士は、次の有名な言葉を残しています。

私たちはここにやってきたときと同じようにまた地球へと戻る。そして全能の神のご意思により、私たちは再び月へと戻るだろう。すべての人類の平和と希望と共に。

We leave as we came, and, God willing, we shall return, with peace and hope for all mankind.

(なお、正確には以下のようになります。
America’s challenge of today has forged man’s destiny of tomorrow. As we leave the moon and Taurus-Littrow, we leave as we came, and, God willing, we shall return, with peace and hope for all mankind.
「アメリカのこんにちの挑戦は人間の明日への運命を前進させた。そして、私たちは月、そして(アポロ17号着陸点である)タウラス・リトロー地域を去る。ここにやってきたときと同じようにまた地球へと戻る。そして全能の神のご意思により、私たちは再び月へと戻るだろう。すべての人類の平和と希望と共に。」)

こうして、月を歩いた最後の宇宙飛行士となったサーナン宇宙飛行士は、地球への帰途についたのでした。それから44年、彼以降に月に向かった人類はいません。

アポロ17号が撮影した地球「ブルー・マーブル」

アポロ17号が月へ向かう途上で撮影した地球。「ブルー・マーブル」(青い玉)として有名な写真。(Photo: NASA)

NASA設立50周年のインタビューの際、サーナン宇宙飛行士は、「アポロ17号はこれまでのミッションの成果に基づいて科学的に製造された。」と述べています。「私たちには月面車(有人月ローバー)があり、他のミッションのときよりもより広い領域にわたって行動することができた。私たちはそこ(月)でこれまでよりちょっとだけ長く滞在した。私たちは、月の起源と進化についてより詳しく知るために、山寄りのエリアにある特徴的な場所を着陸地点に選んだ。」
タウラス・リトロー地域は、月の「海」と呼ばれる黒っぽい部分と「高地」と呼ばれる白っぽい部分との、ちょうど境目に当たる場所です。そして、山がちの起伏に飛んだ場所です。アポロ17号はその山裾に着陸しています。着陸するためには、山のような起伏に飛んだ地形は危険を伴います。しかし、科学的に重要なデータを得るためには、起伏の多い高地の岩石のデータがどうしても必要でした。さらに、地質学者であるシュミット宇宙飛行士がいるということで、より良質なサンプルが取れる場所に降りる必要がありました。最後ということもあり、ある程度危険があることを覚悟のうえで、タウラス・リトロー地域が選ばれたのです。
私(編集長)も月の地質を調べると上でアポロ17号着陸点付近の地質データを(もちろん、周回機のデータから)調べたことがあるのですが、そのためには当時のサンプルの分析結果が非常に役立ちました。彼らがいなければ、彼らが月の石を拾ってこなければ(それも適切なサンプルを拾ってこなければ)、今の数多くの周回機のデータは役立たなかったことでしょう。そして、アポロのサンプルは今でも科学者によって分析が続けられています。

上の「ブルー・マーブル」の写真については、こう語っています。
「写真の意味だって? 私はいつも言っているし、言ってきたし、今でも信じてるし、きっとそうだろう—もう(月着陸から)50年になろうとしているし(インタビューは2007年)、でも、それが50年だろうが100年だろうが、人類が歴史を振り返ってアポロ計画の意味を知るときが来ると思ってるよ。人類が地球という、ただ1つしかない惑星を離れて、宇宙にたった1つしかない私たちの隣の星を訪ねた。私たちがいま宇宙で行っていることを考えると、アポロ計画は少し早すぎたのかも知れない。まるでジョン・F・ケネディ(アメリカ大統領。アポロ計画のきっかけとなる有名な演説を行った)が21世紀にやってきて、何十年もの時を引き寄せて、1960年代・70年代にぐっと戻して、私たちがアポロ計画と呼ぶものを作り上げたかのようだ。」
早すぎたのでしょうか。彼以降誰も月に行っていないということを考えるとあるいはそうかも知れませんし、いま人類が「ふたたび月へ」という動きをみせていることを考えると、機はあるいは熟してきているのかも知れません。

その後サーナン宇宙飛行士は1976年7月1日にNASA及びアメリカ海軍を辞職・退役し、その後は民間企業の職や宇宙開発のコメンテーターなどを勤めていました。

NASAのチャールズ・ボールデン長官は、ユージン・サーナン宇宙飛行士の死去に際し、次のように述べています。

アポロ宇宙飛行士であり、月を歩いた最後の男であるユージン・サーナン氏が、私たちの地球から旅立っていった。彼の死去を本当に悲しく思う。月を1972年に最後に訪れ、そこから去った際に、彼はこう述べている。「この月面からやがてくる未来に向けての最後の歩みの中で、アメリカのこんにちの挑戦は人間の明日への運命を前進させたということを記しておきたい。」彼はまさにアメリカのパイオニアであり愛国者でもあり、私たちの国の途方もない野心的な計画に果敢に挑戦し、それを成し遂げ、人類が到達できなかった場所にたどり着いたのだ。
かれは海軍パイロットとして軍務に就いた後、宇宙飛行士としてジェミニ9号での飛行を行った。アメリカ人として2人目となる船外活動を実施し、宇宙船のドッキング試験を実施した。この試験は後のアポロ計画で重要な役割を果たすことになる。そしてアポロ10号及び17号の乗組員となり、世界で3人だけとなる、月に2回飛行した人間となった(編集長注: 残り2人は、アポロ8号及び13号で月へ赴いた(が着陸できなかった)ジム・ラベル宇宙飛行士と、アポロ10号及び16号で月に赴いたジョン・ヤング宇宙飛行士)。彼はアポロ17号の船長として、未だ破られていない月への最長時間飛行記録、月面での最長活動時間記録、最大のサンプル回収量の記録、そして月軌道上での最長滞在時間の記録を打ち立てた。
ジーンの足跡は月に残されている。彼の活躍もまた、私たちの心に残り、深く刻まれることだろう。国のために大きなことを成し遂げ、チャレンジしようという彼の思いは、次のような言葉に要約されている。
「私たちはまさに挑戦の時代に生きている。挑戦することで機会が得られる。空はもはや限界ではない(原語: The sky is no longer the limit)。不可能という言葉はもはや私たちの語彙には存在しない。私たちは、やろうと決めたことはどのようなことでも実現できるということを知ったのだ。私たちに限界があるとすれば、それは私たちの中にある現状への自己満足である。」
彼についての話の最後に、彼は長い間、青少年への科学意識の向上(編集長注: アメリカでSTEM=Science, Technology, Engineering, Math…と呼ばれている、科学・技術・工学・数学という、4つの基本的な科学技術面での教育)の必要性を説いていたこと、そしてそれを通して青少年へ、挑戦すること、夢見ることの重要性を説いてきたことを述べておきたい。偉大なる人間の死を、私たちNASAのファミリーは悲しみ、悼んでいる。

ユージン・サーナン宇宙飛行士の家族は以下のようなコメントを発表しています。

深く愛された夫であり父でもあったユージン・サーナンを亡くし、私たちは深い悲しみの中にあります。私たちはもちろん、胸が張り裂けるような悲しみの中にありますが、同時に多くの方から寄せられた哀悼の気持ちに深い感謝の意を表します。ジーンは多くの方に知られていましたが、家族にとっては愛情に満ち溢れた夫であり、父であり、祖父であり、兄弟であり、友人でありました。
82歳という高齢にあっても、ジーンは人類の宇宙への挑戦という思いを共有しており、国家の指導者や若い人たちに対し、彼がいつまでも「月面を訪れた最後の人」のままになることがないようにするべく活躍を続けていました。
アポロ宇宙飛行士、そして海軍大佐という輝かしい経歴にもかかわらず、慎ましやかに彼は最近こう話したのです。「私は単に、アメリカという国で夢をみて育った子どもだった。いま私にとっていちばん重要なのは、次の世代を担う若い人たちの心に、不可能だと思った夢を現実にすることができるのだということを伝えていくことだと思っている。」
サーナン氏のあとには、妻のジャン・ナンナ・サーナン氏、娘と義理の息子であるトレーシ・サーナン・ウーリー氏とマリオン・ウーリー氏、継娘であるケリー・ナンナ・タフ氏とその夫であるマイケル、そしてダニエル・ナンナ・エリス氏と、9人の孫が残されます。
ジーンにお別れをするのに際し、彼の本『The Last Man on the Moon』の一節を借りましょう。彼が当時5歳の孫娘に、自分の月面での経験を語ったときの言葉です。「おじいちゃんはてんごくにいったんだよ。ほんとうにいったんだよ。」

アポロ11号による人類初の月面着陸は1969年。まだ2017年が始まったばかりですが、あと2年経ちますと、その月面着陸から半世紀を迎えます。
サーナン宇宙飛行士以来、私たち人類は月面に足跡を記していません。「いつか戻る」というサーナン宇宙飛行士の言葉はまだ実現されていないのです。それを実現させるのは誰、どの国、いつになるのでしょうか。というより、どのようにすれば実現できるのでしょうか。彼が天に召されたこのタイミングで、改めて考えてみるのも悪くないと思います。そして、「ふたたび月へ」というこの言葉が現実味を持つよう、私たちが政府、産業界を動かしていくことも必要ではないでしょうか。

改めて、偉大なる宇宙飛行士、ユージン・サーナン氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2017年1月17日(火)|Categories: アポロ|