2018年11月2日、月探査情報ステーションは発足から満20年を迎えました。
1998年11月2日、月探査情報ステーションの前身となるサイト「インターネットシンポジウム ふたたび月へ」が公開されました。当時は8つのコーナーで構成され、翌年3月までの期間限定サイトとして公開されていました。初日のアクセスは3642ヒット(ファイル数ベース)でした。
20年後、2018年11月2日のアクセス数は2108ページビュー(実際のユーザーの閲覧数)と分析されています。指標が違うため単純には比較できませんが、アクセス数は軽く10倍を越えているのではないかと推測されます。
サイトの規模も大きくなり、ファイル数としては3000以上、新しくなったサイトとして管理されているページ数は1400以上となっています。ウェブサイトとしても有数の大きさのサイトとなっております。
そしてなんといっても、この分野…月・惑星探査の分野では日本でも代表的なサイトとしての認知度を得ています。各種探査機の名前で検索すると月探査情報ステーションのページが上位に出るようになり、大手のポータルサイトなどでも探査の話題で紹介されることが多くなりました。

インターネットという移り変わりの早い世界において、20年間、1つのウェブサイトを運営していくということは、私自身がいうのもなんではありますが大変なことですし、実際大変でした。そのいろいろな大変なことについては後ほど述べるとしまして、このような大変な中での20年、サイトを運営し続けることができたのは、ひとえにアクセスして下さる皆様、月・惑星探査の普及啓発を支えて下さる皆様の温かいご支援のたまものであります。
20周年を迎え、ここに長年の皆様からのご支援に深くお礼を申し上げます。本当に、ありがとうございました。

月探査情報ステーションは、その名の通り、最初は月探査…日本の月探査「かぐや」のプロモーションサイトとしてスタートしました。当時はまだ「かぐや」という名前はなく、セレーネ(SELENE)と呼んでいました。日本ではじめての大型の月探査計画をより多くの方にお知りいただくことを目的として、当時としては斬新であったインターネットでの広報を行ったのです。
当時は1999年3月までの期間限定のサイトとしてスタートしましたが、そのまま運営することに問題がないということから公開を続け、2000年11月からは現在の「月探査情報ステーション」の名前で通年公開を開始しています。

2003年からは火星探査に進出、「火星・赤い星へ」の公開を開始しました。さらに翌年にはカッシーニの土星到着に合わせて惑星探査分野にも本格的に進出しています。
2004年1月の、火星探査機「マーズ・エクスプロレーション・ローバー」(スピリッツとオポチュニティ)の火星到着のときには、到着の様子をほぼ同時にレポートし、1日あたり100万ヒット以上のアクセスを得ました。

しかし、全てが順調であったわけではありません。
2001年以降は運用のための予算がなくなったことから、編集長(寺薗)がほぼ1人でコンテンツの更新・追加を実施しておりました。そのため、編集長の本来の仕事の影響を受けて、更新が滞ることもありました。2006年には3ヶ月ほど更新ができないこともありました。

2007年にはサーバーを宇宙研へ移設、更新を行いやすくする体制を整えます。さらに、発足以来JAXA(発足時は宇宙開発事業団および宇宙科学研究所)のドメインにあったサイトを現在の独自ドメインに移設、サーバーも独自で整えるなど、JAXAからの独立を図りました。
広告収入や協賛の募集などで財政を整え、2016年3月には待望のリニューアルを実施し、デザインの一新、モバイル機器への対応などを実現しました。運営のための合同会社の設立も行い、20年目の月探査情報ステーションは、次のステージへの飛躍を着実に進めています。

20年前、日本の宇宙開発は未来に向けて歩み始めたところでした。
現在の主力ロケットであるH-IIAロケットの前身にあたるH-IIロケットの開発に成功した日本は、H-IIを応用した月・惑星探査の計画を立案します。それがSELENE…「かぐや」でした。
1998年当時、初代「はやぶさ」は開発が始まったところで、「かぐや」はこれから開発をスタートさせるというところでした。宇宙研は月・惑星探査に応用可能な大型固体ロケットM-Vを開発、火星探査機「のぞみ」の打ち上げを実施しました。

それから20年間の日本の宇宙開発は、明暗分かれるジェットコースターのような流れで進みました。
日本の期待を一身に背負ったH-IIロケットは7号機、8号機が連続で失敗。それを引き金にした形で、日本の宇宙開発期間は統合され、JAXAが2003年10月に発足します。
しかし、発足したばかりのJAXAを待っていたのは、H-IIの後継機であるH-IIAロケット6号機の失敗、そして火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道断念という暗いニュースでした。当時のメディアでは、「日本が宇宙開発を続けるべきか」という議論が行われていたことをいまさらながらに思い出します。
その後、2005年には初代「はやぶさ」が小惑星へのタッチダウンに成功、2010年に地球に帰還した際は、社会的なブームを巻き起こします。停滞していた後継機の議論が一気に進み、「はやぶさ2」が2014年に打ち上げられることになりました。そしていま、「はやぶさ2」は目的地リュウグウで探査を行い、私たちに日々新しい発見をもたらしています。

いま、日本の宇宙開発は新しいステージに進もうとしています。
20年前にはまだ夢であった有人月探査はもはや現実の問題として語られるようになり、日本の宇宙飛行士が月面に降りる可能性が議論され始めています。当時「かぐや」開発に携わっていた私たちがスローガンとして唱えていた「ふたたび月へ」が現実のものとなりつつあります。そしてその流れは、宇宙機関だけではなく、民間企業によってももたらされようとしています。
世界に目を転じれば、火星探査への大きな流れが加速しています。この11月に火星探査機「インサイト」が火星に到着し、いま火星では、人類が作った9機もの探査機が活動しています。有人火星探査も視野に入ったといえるでしょう。
その先に待っているのは、さらに先、木星や土星、そしてそれらの衛星の探査です。生命を育んでいる可能性がある天体を探査し、もしかすると地球以外の第2、第3の生命を見つけ出す…。
宇宙開発、そして月・惑星探査の可能性は限りなく広がってきています。

20年を振り返ったとき、私(編集長)の人生としては長かったと感じています。まだ社会人として未熟だった頃、面白そうだと思って飛びついたウェブサイト制作、そして月・惑星探査の普及啓発活動(アウトリーチ)が、私自身のライフワークになるとは思ってもみませんでした。
人類の最先端の活動を伝えるという試みは、20年たった今、大きく花開いたようにも思えます。しかし、20年はあくまでも道の途中でしかありません。この先には有人月面基地、そして有人火星探査という、人類が目指す大きな目標があります。
それを実現するためには多くの皆様の理解が必要であり、そのためにも、いまの月・惑星探査の情報をわかりやすくお伝えする必要があるのです。そして、単にわかりやすいだけでなく、情報が正しいこと、そして最新であることも必要です。それこそが、月探査情報ステーションが掲げる「ミッション」であり、これからも変わらず貫いていこうと思っていることです。
伝え続けること。それは、情報を着実に積み重ねていくことでもあり、私たちに判断の材料をお届けするということでもあります。
これからも月探査情報ステーションは、月・惑星探査という最先端の世界の情報を皆様にお届けしていきます。この先30年、40年…人類が火星に到達する日まで、そしてその日がやってきても、活動を続けてまいります。
これからも月探査情報ステーションへの変わらぬご支援を、どうぞよろしくお願い申し上げます。

2018年11月2日 (本記事の公開 2019年5月23日)
月探査情報ステーション編集長
合同会社ムーン・アンド・プラネッツ 代表社員
会津大学 准教授
寺薗 淳也

※編集長多忙のため、記事公開が大変遅くなりましたことをお詫び申し上げます。