歴史的な「はやぶさ」の小惑星イトカワへのタッチダウンから10年が経ちました。2005年11月26日早朝(日本時間)、小惑星探査機「はやぶさ」は目的地の小惑星イトカワの表面へとタッチダウン、小惑星のサンプル採集を試みました。
実際には、採集用の弾丸が発射されなかったため、本来あるべき形でのサンプル回収はできませんでしたが、タッチダウン、あるいはその1週間前の着陸などの際に機内に入り込んだ微粒子が回収され、地球帰還カプセル内に残されました。2010年11月になり、地球帰還カプセル内の微粒子が小惑星イトカワ起源であることが確認され、世界初の小惑星からのサンプルリターンに成功した、というのはまだ皆さんの記憶に新しいことでしょう。

当時私は、文字通り毎週土・日を徹夜で管制室での作業に詰めていました。メインの仕事は「はやぶさ」の状況を準リアルタイムで伝えるため、ブログに記事を執筆することでしたが、そのほかにも、カメラチームとしての画像処理の手伝いやチーム全体、あるいは管制室全体で手伝えることは何でもやっていた、という状況でした。
正直、必死でした。特に11月26日は、前回失敗しており、もう後がないという最後の挑戦でしたので、プロジェクトチームは「何としても成功させるぞ」という意気込みの一方、未知への戦いと毎週の徹夜からくる疲労との戦いで、本当に肉体的にも精神的にもまいる寸前までいきながら、それでも何とかしようという意気込みで臨んでいました。
あの有名な「的川先生のVサイン」も、チームとして行ってきたことが達成された喜びの爆発なのでした。

的川先生のVサイン

いまや有名になった「的川先生の勝利のVサイン」。報道関係者に着陸成功を知らせるためのものであった。宇宙科学研究所が2010年にリリースした「はやぶさ」ビデオより。© ISAS/JAXA

的川先生のVサインには事情がありました。当時、管制室の様子は一般公開されていませんでした。一般の人が訪ねようにも、あるいは報道陣が訪ねるとしても、スペースはあまりにも狭く、しかも機密性の高い情報もあります。従って、中に関係者以外を入れるということができなかったのです。
そこで、的川先生、そしてカメラチーム主任研究者の齋藤潤氏が、いってみればメッセンジャーとして管制室と報道陣詰め所となっていた2階の会議室を往復して、状況を随時伝えていたのでした。
ただ、まさにいま管制室で起きていることを伝えるためにはどうすればよいでしょうか。Vサインは、まさに「成功」を知らせる、唯一最大、完璧な手段でした(但し、そのときは成功と思っていたのですが…)。

そして、担当者の「必死さ」がある意味で世界中に有名になってしまったのが、あの「栄養ドリンク」のエピソードです。以下は当時の「はやぶさ」実況ブログの中から、リポビタンDの瓶が次々増えていく様子を抜き出したものです。最後はブログ中継終了時の写真で、結局2人で10本飲んでしまったことになります。

DSC06307DSC06321DSC06326リポビタンDの瓶が次々増えていく様子

2人(私と齋藤潤さん)とも別に示し合わせてリポビタンDの箱を買ってきたわけでもなく、また特に意識してガバガバと飲んでいたわけではないのですが、結果的には疲れと必死さからあおりまくり、また箱はちょうどいいキーボード置き場となり(ブログを執筆するにはノートパソコンのキーボードでは感触があまりよくないということで、キーボードとマウスを持ち込んでの作業でした)、その画像はあっという間に世界に拡散され、その夜のうちに今でいう「コラ画像」が作られてしまうという「騒ぎ」に発展しました。もし2005年11月26日にツイッターが存在していたら、あっという間に「はやぶさクソコラグランプリ」が盛り上がったのではないかと思います。

その日から、10年が経ちました。
一旦、その日に記憶を戻し、さらにその10年前を考えてみます。
1995年、私(編集長)は当時の宇宙開発事業団(NASDA=ナスダ)に在籍し、今でいう「かぐや」−−−当時はついたばかりのコードネーム「セレーネ」(SELENE)と呼ばれていました−−−の初期検討に携わっていました。
もちろん「はやぶさ」も検討は進んでいましたし、私が宇宙研に在籍していた頃には検討にも関わっていたのですが、NASDAの開発部員という身ではなかなか直接関わることができるような状態ではありませんでした。
当時は、私たちは「日本も将来月や惑星に行けるようになる」という気持ちでいっぱいでしたし、それを実現する最前線で作業していたことに誇りを持っていました。その後中止となるルナーA計画もまだ遅れてはいたものの存在しており、日本はきっとこれから月・惑星探査の分野で世界をリードする…いや、リードは言い過ぎにしても、いい位置に食い込める、そう思っていました。

その後10年…H-IIロケットの連続失敗が引き金となり、日本の宇宙機関の統合が進み、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が誕生することになりました。「かぐや」はNASDAと宇宙研とが共同で進めていた計画でしたが、皮肉なことにこの計画がJAXA誕生のテストケース、あるいは試験プラットホームとなり、、異なる文化を持つ2つの組織がミッションを進められるということを実証することになりました。
そして誕生したJAXAは、発足直後、2003年11月(これもまた11月です)にH-IIAロケット6号機の失敗という大事故を起こし、いきなり存続の危機に立たされます。
意気消沈した技術者を再び奮い立たせたのは、その翌年の「はやぶさ」地球スイングバイでした。旧NASDAの技術者たちはあまり「はやぶさ」というミッションを知らず、いや、さらにいえば宇宙研の文化そのものもあまり知りませんでした。しかし、高度な制御を必要とするスイングバイの成功、そしてその際に「はやぶさ」が地球にもたらした写真によって、JAXAの技術者たちが、JAXAの中にある技術、そして一粒の希望を手にすることになるのです。それが翌年2月のH-IIAロケット7号機の成功、そして「はやぶさ」のサンプル採取へとつながっていく…私は、そのように考えています。

あの高揚から、10年が経ちました。
「はやぶさ」が満身創痍の状態でも地球帰還を果たしたことで、日本では「はやぶさ」ブーム、さらには宇宙ブームが巻き起こりました。高揚を超えた、熱狂的なブームといってよいでしょう。
帰還後に映画が3本制作され、その中では的川先生のVサインやリポビタンDのエピソードも取り上げられました。2005年当時、技術者たちが必死でやっていたことが、映画という形で今度は日本国民を勇気づけ、感動させることになったのです。
そして、停滞状態であった後継機「はやぶさ2」計画は、政府によって手のひらを返すかのように承認され、その後紆余曲折があったものの、2014年12月に打ち上げられることになりました。
なんだかんだいっても、日本の月・惑星探査時代が訪れたことになるのです。

探査には、立案から打ち上げまでざっと10年かかるといってよいでしょう。
つまり、2015年11月の今、検討が進められる内容は、この先10年くらいしてから実現することになるのです。
いま立案されている月・惑星探査計画は以下のようなものがあります。

  • スリム(SLIM)計画…月への高精度着陸を目指す計画。2019年度打ち上げ予定。
  • 火星衛星サンプルリターン計画…火星の衛星(2つ…フォボスあるいはデイモス…のうちのどちらか)からサンプルを持ち帰る計画。早ければ2023年にも実現予定。
  • ジュース計画…日本とヨーロッパ共同の木星探査計画。計画では2022年打ち上げ予定。その場合には木星到着は2030年。

さらに、現在進んでいる計画として、「はやぶさ2」「あかつき」そして、水星探査の「ベピ・コロンボ」があります。1995年の私が夢見ていた「月・惑星探査を(継続的に)行える国、日本」にようやく、なりつつあるのです。
もちろん、諸外国、とりわけアメリカに比べればまだまだ頻度などの点でも十分とはいえませんが、20年経って…あるいは2005年から10年経って…ひとまずこの点では大きく進歩したのではないでしょうか。

では、10年後に向けて何が必要でしょうか。
1つは、こういった月・惑星探査に、もっと私たち自身が参加していくようにしていくことかと思います。20年前は、月・惑星探査、さらにいえば宇宙開発は、一部の技術者だけが参加している夢のような話でした。月・惑星探査の話をすれば、必ず司会者が「ロマンのある話ですね」という、結局は突き放したような言葉で締めくくったものでした。
10年前、「はやぶさ」管制室の壁には、日本中、いや世界中の多くの人たちからの応援メッセージが所狭しと貼られていました。それは別にJAXAが積極的に呼びかけたわけではなく、自然発生的に起こったムーブメントだったわけですが、結果的に、応援するという形で私たちも月・惑星探査に参加できるということを実証したことになりました。

しかし、次の10年では、応援からさらに進め、参加という形に進んでいって欲しい、そう私は思います。
もちろん、月・惑星探査は身近になったとはいえ特殊な世界です。専門用語が飛び交い、論文はほとんどすべて英語で、そう簡単に入れる世界ではない、そのことは間違いありません。ですが、その成果自体が難しいわけではありません。「月には水(氷)があるかどうか実は議論になっている」「土星の衛星エンケラドゥスには水の間欠泉がある」、こういった成果自体を知ることは私たちでもできます。
月探査情報ステーションは、そういった成果をわかりやすく伝えることを目的として情報を発信していますから、こういうサイトを使って成果を知ることもできるでしょう。
その次には、「それをどうやって知ったのか」というところへ進んでいくことではないでしょうか。難しい道かも知れませんが、専門用語を駆使しなくても必ず行ける道はあります。
そのような挑戦は、専門家だけが守ってきた世界を多くの人に解放する、大きな流れになっていくはずです。
すでにそのような挑戦を行っている組織があります。日本惑星協会です。今年7月に3年ぶりに復活したこの組織は、市民が探査に参加するような枠組みを目指しています。この参加の仕方は、もちろん専門的な議論もありますし、お金を寄付するというような形もあります。ですが私としては、やはり「知る→参加する」の流れに何とか持って行きたいと思っています。
新生・日本惑星協会の母体となったのは、「小天体探査フォーラム」(MEF)という、まさに市民の手で小惑星探査をつくろうという流れでした。多くの人がフォーラムに参加し、情報を提供したり議論に加わったり、さらには自らの活動の宣伝を行ったり、幅広い活動を繰り広げてきました。
もちろん、なかなかそのような試みが大きく広がるという形になっていないことは確かですが、その流れが着実に広がったからこそ、新生・日本惑星協会が生まれたともいえるのです。

10年後、私たちは「みている側」「応援する側」から実際に作る側へと回り、より主体的に探査に関わっている…そのような夢をみてもいいではありませんか。
探査は専門家だけがやるものである、などという法律も条約も存在しません。もちろん専門的な知識やお金は必要です。しかし、その前に「やろうという意志」こそがもっとも必要なのです。
月探査情報ステーションもそのためにこの先も頑張っていきます。次の10年に向けて、皆さんもぜひ、新しい世界を一緒に作り上げていきませんか?