元・NASAのジェット推進研究所(JPL)所長を勤め、カリフォルニア工科大学教授であり、またアメリカの月・惑星探査推進団体である惑星協会(The Planetary Society)の会長も務めたブルース・マレー氏が、29日(現地時間)、81歳で亡くなりました。
マレー氏はアルツハイマー病を患い、近年は闘病生活を続けていました。直接の死因はこのアルツハイマー病に伴う進行性の病気とのことです。
マレー氏がJPL所長を務めていたのは、1976年から1982年にあたり、実はこの時期は、アメリカの惑星探査の黎明期、そして第1次黄金期といってよい時代でした。火星探査機バイキング、惑星探査機ボイジャーを中心として、NASAの惑星探査をJPLで率いてきました。
マレー氏は1931年11月30日、ニューヨークに生まれました。マサチューセッツ工科大学(MIT)で地質学の博士号を取得、その後1955年から1958年にかけて、その地質学の知識を活かして石油会社であったスタンダードオイル社(19世紀にロックフェラーにより設立されたスタンダードオイル社とは別の会社。現在のシェブロン)に勤務、その後2年間にわたりアメリカ空軍に従軍します。
1960年、カリフォルニア工科大学に移り、教育と研究の生活に入ることになります。この時代はアポロ計画をはじめとしたアメリカの月・惑星探査の黎明期でもあり、一方ではクレーターの形成などをはじめとする、月・惑星の基本的な理解が求められていた時代でした。
マレー氏は当初、惑星天文学(Planetary Astronomy)という研究部門で働いていましたが、月・惑星探査機が多くの画像を送信してくる探査の時代を迎え、その写真を専門に解析するJPLの画像解析部門へと異動し、ここで、はじめて火星の表面の姿を捉えたマリナー3号、4号の写真の解析に携わることになります。さらにその後のマリナー6号、7号、9号の写真解析にも携わり、地質学の知識をフルに活かして火星表面の様子の解析で業績を挙げます。
JPLはNASAの機関、あるいは1研究所のように思われる方も多いようですが、実際はカリフォルニア工科大学の研究所で、運用資金はNASAから提供され、運営は大学とNASAとが共同で行っています。そのようなことから、大学の教員がJPLに異動したり、あるいはその逆のルートで戻るということはごく当たり前にあります。もちろん学生もJPLで研究活動をしたりすることがあります。
その後、JPL所長時代には、火星探査機バイキング、そして惑星探査機ボイジャーの各計画に携わり、一方ではベトナム戦争後のアメリカの予算危機の時代(当然ながら宇宙探査予算も大幅な縮小に見舞われました)を切り抜け、後に大きな成果を生む惑星探査を作り出していきました。
また、JPL所長時代には、地球観測衛星や天文衛星の打ち上げなどを指揮したり、アメリカのエネルギー省が主導する大規模太陽エネルギー導入計画の研究を主導するなど、幅広い活躍を行いました。
1982年にJPL所長を退職したあとは、カリフォルニア工科大学教授を務めていましたが、その後木星探査機であるガリレオ計画では再びJPLに戻ってアメリカ側の担当者として着任するなど、月・惑星探査を一貫して推進してきた人物です。
生涯での論文は130本以上、また共著で7冊の本を執筆しています。
一方で、月・惑星探査に関するアウトリーチ(対外広報活動)にも大変熱心でした。1979年、カール・セーガン博士らと共に、月・惑星探査を市民の手で支え、またその成果を広く伝えていくための組織、惑星協会(The Planetary Society)を設立します。
惑星協会の会長は1979年から1995年までカール・セーガン博士が務めましたが、その後6年間はブルース・マレー氏が会長を務めています。現在では会員数が全世界で10万人以上(もちろん、編集長=寺薗も会員です)を数えるという、文字通り世界最大の月・惑星探査の推進団体にこの組織を育て上げたのは、セーガン博士とマレー氏であったといっても過言ではないでしょう。
マレー氏は、充実した会誌の発行(現在ではThe Planetary Reportとして発行。第一線で研究成果を重ねている専門の学者が寄稿する雑誌としてその高度な内容が評価されている)や、現在の会を支える主要メンバーの招請など、今の会の基礎を築く大きな役割を成し遂げました。
博士は日本にも深い愛情を寄せていました。1990年台前半には、惑星探査と惑星地質学の研究のため、宇宙科学研究所に滞在し、黎明期にあった日本の惑星探査、そしてそれを支えている惑星科学者に多くの影響を与えました。
私自身、ちょうどその時期に宇宙科学研究所で大学院におり、マレー博士とは親しく(まるで自分の教授であるかのように)お付き合いをしていました。その後「はやぶさ」、「かぐや」と続いていく日本の月・惑星探査の道筋をつけていった方として、日本の月・惑星科学にも重要な貢献をされています。
学生にも親しく話しかけてくれる気さくな人柄は非常に人気が高く、日本にも多くの友人、知り合いを作っていきました。
晩年は、大学で研究を続けながら、NASAの審議会委員として惑星探査を指導する立場となり、また1990年代後半に立て続けに発生したNASAの火星探査の失敗に際しては原因究明委員会の委員ともなり、月・惑星探査を立て直すために尽力しました。2000年台に火星探査が全て成功裏に進んでいるのも、彼の力があるといえるでしょう。その他にも多くの企業や団体の顧問などを歴任しています。
JPL所長のチャールズ・エラチ氏は、「彼がJPL所長として働いていた時期は、予算などの厳しい現実に直面し、惑星探査の灯が消えてしまいかねない時期であった。そんな中において、彼は精力的に動き、アメリカの惑星探査計画を救うという大きな役割を果たしてくれた。そして、JPL所長職を辞し、大学に戻ったあとも、惑星探査、そして宇宙探査の重要性を多くの人に伝えるという、大切な役割を果たしてくれた。」と、研究、開発、そして広報という様々な面におけるマレー氏の業績を高く評価するコメントを発表しています。
惑星協会の名誉会長でもあるルイス・フリードマン氏は、「半世紀以上にもわたり、ブルース(・マレー氏)は私の指導者、上司、同僚、そして何よりも友人であり続けた。彼と一緒にいろいろなことができたことは、私にとってこれ以上もない経験であった。」と述べています。
私にとっても、学生時代、宇宙研の廊下を歩くマレー氏(背が高かったので、本当によく目立ちました)の姿は今も目に焼き付いています。そして、彼の言葉により、月・惑星探査のアウトリーチの重要性を認識し、今に至っているのです。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
- JPLのプレスリリース
http://www.jaxa.jp/article/interview/vol6/
本インタビューには、当時JAXA広報部に所属していた私(編集長=寺薗)も企画、内容で関わりました。
https://moonstation.jp/ja/mars/exploration/