1月20日は、月探査機SLIMの月着陸成功から1年となります。
2023年9月に打ち上げられ、2023年12月末に月周回軌道に投入されたSLIMは、1月20日に月面着陸に成功しました。発電ができないトラブルを乗り越え、月面の写真を送り、そして想定していなかった月の夜を越えるという驚くべき所業を成し遂げた探査機です。
2024年1月1日をもって、プロジェクトチームは解散しました。
SLIM着陸から1年、ますます活発になる月探査の状況を踏まえ、改めてSLIMの業績を振り返り、いま私たちがSLIMからどのような教訓を汲み取るべきか、考えていきます。
■改めて、SLIMを振り返る
SLIMは、JAXAが開発した月探査機(月着陸機)です。主な目的は、月面着陸技術の取得、そしてピンポイント着陸の実証です。
日本は意外なことに、月や火星など、ある程度の重力がある天体への着陸には今まで成功していませんでした(正確にいえばチャレンジもほとんど行っていない)。
日本は小惑星へのタッチダウンは2回行っています(「はやぶさ」及び「はやぶさ2」)。しかし、小惑星の重力は地球の数十万分の一〜100万分の1と、ほとんど重力がないといってもいい状態なので、探査機がある程度自由に動くことができます。
しかし、月は地球の重力の6分の1、火星は3分の1と、ある程度強い重力があります。こういったある程度の重力を持つ天体(重力天体といいます)は、その重力に逆らいながら着陸しなければならないため、逆噴射や着陸時の衝撃緩和など様々な技術が必要になります。そしてそれは決して簡単なことではありません。
実際、この数年でもイスラエルの探査機「べレシート」やインドの「チャンドラヤーン2」、ロシアの「ルナ25号」など、月着陸に失敗した探査機がいくつもあります。
一方、月や火星など、天体に着陸する技術は、将来これらの天体を探査する際には必ず必要になる技術です。
人を天体に送る際にはもちろん、観測機器、さらには様々な資材などを送りくこむときにも、軟着陸ができなければどうしようもありません。
そして、ただ降りるだけでなく、降りたいところに降りることも重要です。
科学的に重要な岩石が露出している場所、月面基地がある場所、月の水がある(と思われる)場所、そこに降りられてこそ、探査や月面活動が進むことになります。
ただ、いままでの月着陸機は、「降りられるところに降りる」という形が普通でした。本来予定していた着陸点から数キロ〜数十キロずれることは当たり前でした。それは、着陸の際の安全を優先しているためではありますが、これでは将来の月探査、月面開発では役立ちません。
ピンポイントで降りたいところに降りる。そのための技術を習得する。これがSLIMの大きな目的です。
SLIMの開発は2016年に始まりました。そして、何回にもわたる遅延の後、2023年9月にH-IIAロケットで打ち上げられました。
2023年12月には月周回軌道に投入され、着陸に向けた準備が順調に進められました。
そして、2024年1月20日、SLIMの月面着陸が行われました。
当初、軟着陸は成功したものの、月面で太陽電池が発電していないという問題が起きました。原因はその時点では不明でした。
探査機の行く末を危ぶむ声が出たものの、1月25日にJAXAは記者会見を開き、ピンポイント着陸(目標地点から55メートルでの着陸。成功とされる目標は100メートル以内)に成功したこと、そして2台の超小型ロボットのうち1台「SORA-Q」(ソラキュー)が撮影した写真を公開しました。
あまりにも鮮明にSLIMの姿を捉えたこの写真は、またたく間に日本中、世界中を駆け巡りました。
そして1月29日、SLIMが復活したとの一報が入りました。
上の写真の通り、SLIMは本来の向きと異なる方向に太陽電池を向けて着陸していました。それが、太陽電池が発電していない理由だったのです。1月29日、つまり、月面の夕方の時間帯(太陽電池は西側に向いていた)、太陽電池に日が当たり、探査機に再び電力が供給できるようになったわけです。
直ちに、科学観測カメラ「マルチバンドカメラ」(MBC)による観測など、SLIM本来のミッションが実施されました。
このあと夜を迎え、2月1日にSLIMはシャットダウンされました。
SLIMは月面の夜を越える機構を持っていません。月面の夜はマイナス170度にもなる極寒の環境です。SLIMミッションそのものも最大14日(月面の昼間)の運用を想定したものでした。編集長自身、ここでSLIMミッションは終わりであろうと考えていました。
しかし、2月末、その予想を吹き飛ばすできごとが起こります。なんと、月面からSLIMの電波を受信したとJAXAが発表したのです。月の夜を越えるためのヒーターなどの装備を持たない探査機が復活するというのは極めて異例のできごとです。
驚くべきことに、その後3月末、そして4月末と、3度にわたりSLIMは月の夜を越えて復活を果たしました。
越えるだけならまだしも、カメラ機能も正常に動作しており、月面の様子を撮影して地球へ送信してきました。
しかし、「奇跡」は何回も起きてはくれませんでした。
5月末に、期待された通信は地球で受信できませんでした。6月末、7月末も同様に、SLIMからの電波を受信することはできませんでした。そして、8月末にも電波は受信できませんでした。
以上から、SLIM復活の可能性は低いと判断した運用チームは、8月23日、SLIMの運用を終了することを宣言しました。そして、SLIMに対し、(恐らくすでに探査機は機能を停止しているとは思いますが)機能停止のためのコマンドを送信、ここに半年ちょっとにわたったSLIMの月面での挑戦は幕を閉じたのです。
そして年が変わって2025年1月1日、SLIMミッションチームは解散となりました。
名実ともに、これでSLIMミッションは終了を迎えたことになります。
■SLIMが成し遂げた成果
SLIMは数多くの成果を成し遂げました。ここでそれを振り返っていきましょう。
(1) 日本初の月面着陸
SLIMは日本で初となる月面着陸を名しとげました。また、JAXAとしても初の月面着陸となります。
この「JAXAとして」というのは、実はSLIMは後述するようにミッションが遅れていたため、場合によっては他のミッション(具体的にはアイスペースのHAKUTO-R M1)に先を越される可能性があったからです。もしその場合には、日本初の月面着陸は(日本人初の有人飛行がそうであったように)民間が先行するという異例の形を取る可能性もありました。
月・惑星探査の進行には、ある一定の順序があります。
まずはフライバイ(目的天体の脇を通り過ぎて探査)、その次が周回(目的天体の周りを回って探査)、その次が着陸・ローバー探査(実際に天体に降りて探査)、そしてサンプルリターン(その天体から物質を採取、地球に持ち帰る)です。「はやぶさ」などの一部例外を除いて、ほとんどすべての月・惑星探査がこの順序に沿って進んでいることがわかります。
つまり、例えば日本として月探査を進めていくためには、周回探査(「かぐや」)の次の着陸探査は、その先に進むためにどうしても越えなければならないハードルだったわけです。そしてSLIMにより、日本はそれを手に入れることができました。
そして、上述の通り、重力天体への着陸に成功したことで、日本としての将来的な火星探査やその先の月・惑星探査への大きな可能性が開けました。
私はこの状況を「月・惑星探査に参加するための『チケット』を手に入れた」とメディアなどで表現してきました。
今後世界各国が月探査競争に熱を上げる中で、日本としてこのチケットを持っておくことは、他国に頼らず必要な探査を実現できること、また、他国からみてそれだけの技術を持つと信用してもらえる国であることを示すことになります。
(2) ピンポイント着陸
月着陸に成功したのみならず、非常に精度の高い着陸=ピンポイント着陸を実現できたことも重要です。
SLIMは着陸目標地点から55メートルという、高い精度での着陸を実現できました。
実際には、高度50メートル付近で推進系の1つがトラブルを起こし、本来の動作を実現できないというトラブルに見舞われていましたが(探査機の姿勢が崩れて着陸したのもそのためと考えられます)、坂井真一郎プロジェクトマネージャーによれば、そのトラブルがなければ精度は3〜4メートルにさえ達しただろうとのことです。
また、この精度を達成するための航法として、「画像照合航法」というものが使われました。
一言でいえば、SLIM自身が持っている地図と、実際に撮影した画像を機上で照合し、SLIMがいまいる位置を同定するものです。あらかじめ高精度な地図を用意する必要もあり、また機上で膨大な画像データをリアルタイムで処理する必要があるなど、非常に難しい技術が使われていますが、今回はこれが完璧に成功したことになります。
私たちが山登りなどをするとき、実際の地形の特徴と地図の等高線などを照らし合わせて目標を目指しますが、それに近いことをSLIMは月面(月上空)で、しかも無人でやってのけたのです。この技術は非常に貴重だといえるでしょう。
今後の月面着陸でも、このピンポイント着陸技術、その核になった画像照合航法は、日本の強みとして活かせると考えられます。
また、着陸直前の障害物検知などでは、「はやぶさ」や「はやぶさ2」で培った技術も使われました。
このように、日本が積み重ねてきた技術的な成果が着実に引き継がれているといえるでしょう。
(3) 科学的な成果
SLIMは本来であれば工学的成果を目指した探査機であり、科学(理学)的な成果は二の次、というと言葉は悪いですが、優先度は若干低く設定されています。
しかし、SLIMに唯一搭載された科学探査装置「マルチバンドイメージャー」(MBC)はまさに大活躍を成し遂げました。
MBCは、SLIM着陸展周辺の岩石のスペクトルを調べ、その岩や石の成分を詳細に分析するものです。
大規模な化学的な分析装置を月面に運ばなくても、あるいはサンプルを持ち帰らなくても、着陸点周辺の岩石の詳細を知ることができるという意味で、探査規模に見合った科学観測装置であるといえるでしょう。
SLIMがクレーター内部の斜面という、着陸にはかなり難易度が高い場所を着陸地点に選んだ理由は、その地点に月の内部(マントル)からやってきたと考えられる物質(カンラン岩と考えられる)が露出しているらしいことが、「かぐや」の探査から突き止められていたことでした。
科学的に重要な物質がある場所に、ピンポイントで降りられなければ意味がありません。工学側にもそのような要求が突き付けられたとともに、理学側としてもそれを元に科学的成果を出すことが要求されます。
このように、宇宙研における工学と理学の結びつきは、今回のSLIMでも遺憾なく発揮されました。
MBCの観測結果について、現時点で論文発表はありませんが、学会発表などではすでに初期成果が発表されており、着陸地点には確かにマントル由来と考えられるカンラン岩が露出していたことが確認できたとのことです。
これだけでも科学的にはたいへん大きな成果ですが、さらに一歩進んで、そのカンラン岩の詳細な組成を調べることで、月内部の岩石の状況、岩石ができたときの温度・圧力環境など、岩石を生み出した状況を知ることができると考えられます。そうなれば、月の形成や進化を知る上でも大きな成果になると期待されます。
今後、論文発表がなされるかと思いますが、それを期待して待つことにしましょう。
(4) 超小型ロボットが生む可能性
今回SLIMでは2種類の超小型ロボットが搭載されていきました。それぞれ、LEV-1、LEV-2と呼ばれています(LEVはLunar Excursion Vehicle、すなわち月を移動する乗り物の略)。
LEV-1は大きさが30センチほど、重さが約2.1キログラムです。ジャンプしながら月面を移動するという機構を試したほか、地球との直接通信も行える性能を持っていました。
実際、月面では数回の跳躍に成功したほか、地球との直接通信に成功しました。
そして、LEV-2と呼ばれているロボットがSORA-Qです。直径わずか8センチメートル、重さが約250グラムと、これまでの概念を覆す超小型ロボットです。のみならず、開発は民間企業、それも宇宙関係企業ではないおもちゃ会社、タカラトミーがJAXAと協力して行いました。
搭載しているのはカメラのみです。そして、内蔵電池が尽きれば動作は終了します。
このような極めてシンプルなロボットが、SLIMの月面での様子を近くから撮影し、地球へと送信してきました。SLIMの実際の状況を知るというだけではなく、ロボットの自律動作ができたという意味で、これは極めて大きな意義を持ちます。
将来、月探査機を支える補助ツールとして、こういった超小型ロボットは有人・無人探査を問わず大きな役割を果たすでしょう。
宇宙飛行士の行く手をあらかじめ調べて危険を通知してくれたり、複数台で探査して効率的、あるいは大規模に探査を実施するなど、その可能性は無限大といえます。
このような超小型ロボットは今後も月へと向けて飛び立ちます。間もなく、同じ日本が開発した超小型月面探査ロボット「ヤオキ」(YAOKI)が月に向かいます。
小型化は日本のお家芸です。この分野で日本が先行し、他国をリードしていくことは、新たな月探査の可能性を日本が開拓することにつながるでしょう。
また、今回の探査では、ロボット同士の連携が行われました。
SORA-Qが撮影した画像はSLIM本体ではなく、LEV-1に中継され、地球に送られました。
このように超小型ロボットが連携して月面で動作したのは世界初となる事例です。
上記のように超小型ロボットによる探査の可能性の中で重要となるのは、月面におけるロボット同士の連携です。今回のSLIMはまさにその第一歩を記したことになります。
今後の探査にその実績や教訓が生かされていくことになるでしょう。
(5) 幾度もの復活
SLIMは、大方の予想を覆し、月の夜を何度も越える(越夜といいます)ことに成功しました。
月の夜のマイナス170度という環境は、電子機器や内蔵バッテリーに特に大きなダメージを与えます。
通常、月の夜を越えることを想定した探査機は、そのような寒さに耐えるための装置…例えばヒーターを装備します。そのための装置は大型になることも多く、また太陽光が当たらないため、太陽光以外の動力に頼らざるを得なくなります。例えば原子力電池などを使用することが一般的です。
今回、そのような越夜用の対策を特に行わなかったSLIMが夜を3回も越えることができた理由については、JAXAでも詳細な検討を行っているところです。まだ結論は出ていません。
ただ、その理由を掴むことができれば、例えば将来の月面基地、あるいは月面ローバーなどにおいて、越夜用の装備を今の想定よりも簡素化することができるようになるかも知れません。そうなれば、月での活動の可能性が今より一層広がるのではないでしょうか。
■SLIMが残した教訓を引き継ぐ
さて、このようにいくつもの大きな成果を残したSLIMですが、どんな探査でもそうであるように、それは決してすべてを手放しで喜んでいいというものではありません。
日本人によくありがちな「終わりよければ全てよし」にならないよう、ここでSLIMが残した、そして将来に引き継いでいくべき教訓について、2つの点を述べていきたいと思います。
(1) 高精度着陸の成果をどう継承していくのか
これだけ大きな成果を上げたSLIMですが、今後この成果がどのような形で引き継がれていくのかは定かではありません。
JAXAでは、SLIMの運用技術などについて外部への提供も行うと述べています。またその「外部」には民間企業も含まれるということです。ただ、その方向性などは1年たった今でも公表されていません。
SLIMに続いてJAXAが月面へと降り立つのはLUPEX(ルペックス)になります。これは日本とインド共同の月探査計画で、月の南極地域に降り立ち、ローバーにより月の水の存在の有無、あるいはその量を測定することを目的としています。
ただこのLUPEX、着陸機はインドが開発します。
ここにSLIMの画像照合航法などが使われるかどうかは定かではありません。
今回の画像照合航法データのもとになっているのが、インドのチャンドラヤーン2が撮影した画像データであることを考えると、LUPEXでその技術が導入される可能性があるとは考えられます。
こういった技術は、何度も試して精度を上げていくことが必要です。
そして、月探査競争が激化しているいま、日本としてこの貴重な技術を磨き上げておくことが必要です。
高精度着陸技術は何も日本だけが持っている技術ではありません。すでにアメリカ(の民間企業)でも開発が行われていますし、おそらく中国も持っているでしょう。こういう分野は激しい競争にさらされているのです。
であれば、今回SLIMが開発・実証した高精度着陸技術をどのように活かすべきか、また他の組織…特に民間企業や海外にどう(戦略的に)提供するのか、問われているといえるでしょう。
(2) 失敗部分の検証
SLIMは確かに着陸には成功しました。しかし、実際の形は90度曲がってしまい、発電が不十分であるなど、全面的な成功とはいえなかった部分があります。
SLIMが本来の姿勢で着陸できなかった理由は、月面まで高さ50メートルというところで、SLIMが搭載していた逆噴射用のエンジンのうち1基が過熱・脱落し、SLIMの動作が狂ってしまったためです。
この理由についてJAXAは、12月26日の記者会見で、推進系そのものではなく、推薬(燃料)を供給する部分で問題が発生した可能性が高いと明らかにしました。非常に簡単に申し上げますと、このメインエンジン噴射時に、ほかにも多数のスラスター(小型ロケット)噴射のタイミングが重なり、一時的に濃い燃料がメインエンジンに送られてしまいました。このタイミングで点火したために大きな衝撃が発生、結果としてメインエンジン破損に至ったというものです。
下記記者会見、15分〜21分くらいにこのあたりが述べられています。
事故は月面で起きていますから、地球のように実物を回収して検証することはできません。全ては送られてきたデータ(テレメトリーデータ)から推測するしかありません。それらからこのような形で原因を究明できたことは、今後の事故防止という意味でも素晴らしいことかと思います。
と同時に、では今後同様の起きないようにするためにはどうしたらいいのでしょうか。
もちろん、JAXAとして再発防止策は打つとは思います。具体的には、推進系に対して何らかの手当を施し、今回と同様の事象が起こらないようにすることになるでしょう。
ただ、問題の背景に、その事故が起きた推進系だけでなく、さらに背後に控えている問題はないでしょうか。例えば軽量化、開発方針などが影響を与えたことはないでしょうか。
また、姿勢が乱れて着陸したことによって太陽電池が発電できなかったことについても、検証が必要とは考えます。
SLIMは、想像図にもあるように、上面に太陽電池を貼り付けたデザインとなっていました。一方、初期のSLIMは比較的「保守的」な設計で、胴体に太陽電池を巻き付けたような格好となっていました。
もしこのように太陽電池が周囲にはられているタイプであれば、今回のような事態になった際でもある程度の発電が行えたのではないかと考えることもできます。
ある問題が起きたときにそれが別の問題に波及しないようにしていくためには、ミッション全体の調整が必要です。
SLIMでこれがどのようになされてきたのか。すでにミッションチームは解散しており、残されたものは資料とデータだけとなっていますが、今後の月探査ミッションにおいて、適宜これらに立ち返り、教訓を引き出していくことが必要だと考えます。
(3) SLIM実現までの歴史
SLIMの成功によって忘れ去られようとしていますが、日本は実は、月着陸を20年以上にわたって計画していました。
最初に日本において月着陸の構想が出てきたのは1990年代後半、現在の「かぐや」(当時はSELENE=セレーネと呼ばれていました)の計画の中でした。この計画の初期段階では、ミッションの最終段階で推進モジュールが月面に着陸、着陸技術を実証する計画でした。
しかしこの計画は中止となります。理由は、1990年代末に起きた相次ぐH-IIロケットの失敗です。
H-IIロケット6号機・8号機の連続失敗を受けて、当時の宇宙開発事業団では当時検討していたすべてのミッションの見直しを実施、その結果、リスクを伴うミッションについてはすべて中止するという決断を下しました。要は、少しでも失敗する可能性があるものは行わないというものです。月面着陸もこの「リスクがあるミッション」と判断され、キャンセルされることになりました。
ただ、着陸を目指していた技術者たちは諦めませんでした。その後も技術者グループでの検討を実施し、「SELENE-B」としての検討を続けます。
そして、その検討はさらに2000年代はじめころから「セレーネ2」(SELENE-2)としてJAXAでも引き続き行われるようになります。
しかし、月面着陸に向けた動きは一向に進むことはありませんでした。この間、日本でも月ミッションへの機運が一時期高まったことがありましたが、セレーネ2には追い風となりませんでした。予算はつかず、月着陸は検討のままでとどまっていたのです。
結局2015年3月、セレーネ2は検討を終了します。
SLIMはこの「セレーネ2」の中から月着陸という要素を抜き出し、エッセンスを実現した形となります。ただ、セレーネ2自体が引き継がれたわけではなく、SLIMはセレーネ2とは全く異なるチームとしてスタートしました。
そして、SLIM計画がスタートしても、進行は遅々としたものでした。
本来SLIM計画は小型月探査計画として迅速に進行する予定でした。最も早い予定ではイプシロンロケットで2019年にも打ち上げられることになっていました。
しかし、ここで予想外の出来事が起きます。SLIMと同じ宇宙研の天文衛星「ひとみ」の打ち上げ失敗です。
この代替機として構想されたXRISM(クリズム)の打ち上げをSLIMと同じロケットで行うこととし、ロケットをイプシロンからH-IIAに変更することになりました。このこともあり、計画は2021年度に延期されました。
さらに、この相乗りのXRISMの開発の遅れにより、打ち上げ年度は2022年度に延期。そして、H3ロケットの開発遅延を受け、H3ロケットの開発を優先させることから、打ち上げは2023年度早期に延期されることになりました。
しかし、H3ロケット1号機は打ち上げ失敗。このため、同様の要素を持つH-IIAについても点検が実施されることになり、打ち上げはさらに2023年中頃まで伸びることになりました。
こうしてようやく2023年8月に打ち上げられる予定だったSLIMですが、天候の関係で2週間延期、9月7日にようやく打ち上げられました。
SLIMは一体何度遅れたのか、数えるのも嫌になるくらいです。
さらにいえば、1990年代から、一体何年かけて実現したのか、こちらも振り返るのが苦痛になるほどです。
当時、編集長(寺薗)はSELENE計画の立ち上げや事務局業務に従事していました。そして、着陸計画が目の前でキャンセルになり、大慌てとなった現場におりました。
当時としては仕方ない状況だったかも知れません。歴史にIFはないといいます。
しかしもし、月着陸機開発が1990年代後半に実現していれば、2000年代なかば…「かぐや」が打ち上がった頃には、日本も月着陸機を着陸させられたことでしょう。
中国が月着陸機「嫦娥3号」を着陸させ、世界で3番めの月着陸国になったのは2013年。インドが月着陸機「チャンドラヤーン3」により月面着陸に成功したのは2023年…SLIMのわずか半年ほど前(インドはその前、2019年に「チャンドラヤーン2」で月面着陸に挑んでいますが失敗しました)。
SLIMが月着陸に成功した当時、メディアで「日本は世界で5番目の月着陸に成功した国になった」と大はしゃぎしていました。しかし、考えてみて下さい。世界で月・惑星探査を実施できるロケット・探査機技術を持つ国は、アメリカ・ロシア・中国・インド・ヨーロッパ、そして日本だけです。
6つの中の5番目です。順位に意味はないんだ、着陸したことに意義があるんだと思う方もおいでかも知れませんが、着陸に3番めに成功した国と5番目に成功した国とで、どちらが技術的に優位にあり、例えば民間企業が自分たちの探査機や衛星を任せようと思うか、それは自明ではないでしょうか。
そして日本は優位に立てたにも関わらず、20年以上にわたって月着陸をいわば放置状態にしてきました。
その間に、あとからやってきた民間企業「アイスペース」の方が迅速に月着陸機を構築、1回めのチャレンジを行ったところでした。
しかし、皮肉なことに、SLIMが月面に降り立った2024年は、日本の月・月探査・月開発への関心が高まった、ちょうどそのどまんなかでした。ですから、まさにSLIMは大歓迎されたわけです。
しかし、SLIMの背後に、日本の宇宙開発、月探査がこのような歴史を追ってきたことを忘れてはなりません。
さらにいえば、日本の月探査が盛り上がっている理由が、「外圧」であるところのアルテミス計画にあることも忘れてはなりません。
本日(現地時間)発足する第2次トランプ政権下では、政府機関のスリム化を実施することを目指す「政府効率化省」(DOGE)が設置されます。座長はあのイーロン・マスク氏です。そう、スペースXのCEOです。
当然、NASAも槍玉に上がるでしょう。多くの海外メディアが、アルテミス計画に使われる、1回の打ち上げに4,000億円も使用する超巨大ロケット、SLSを廃止するのではないかと報道しています。それは今後の検討に委ねられるでしょうが、アルテミス計画にも大なたが振るわれることは間違いないでしょう。
アルテミス計画に大きく依存した宇宙計画を立てている日本にもその影響はあるわけで、またここで月探査が縮小することになれば、歴史は繰り返すことになります。
ただ今度は昔と大きな違いがあります。アルテミス計画の規模が大きいこと、そして多くの民間企業がすでに月探査・月開発に参入しているということです。
もし「何らかの」変更があった場合、その影響は計り知れません。
なぜ、20数年も月への歩みがそのままとなっていたのか(一方で「はやぶさ」後継機は迅速に4年後に打ち上げられたのに)。
そもそもなぜ、いま日本は月探査を推進しようとしているのか。
JAXAとしての「次の」月着陸計画はあるのか?(繰り返しますが、LUPEXでは月着陸機はインドが開発します。日本はローバー担当です)
あるとしてそれは何年後なのか。
JAXAがやらないのなら、民間企業に委託するのか?(NASAのCLPSのような形)
民間企業が主体となるなら、その枠組みはどうするのか。宇宙戦略基金を使うのか、他のスキームを設けるのか。
こういったことを、オープンに議論していく必要があります。
政府機関…JAXAだけではなく、宇宙政策委員会、内閣府、経済産業省など、宇宙開発に携わるすべての組織がていねいに説明し、情報を公開していかなければなりません。「宇宙開発なんて難しいからどうせ関心を持つ人も少ないだろうし」と考えていたら、宇宙開発はいずれ人々の信用を失うでしょう。
それでなくても、日本の宇宙開発には少なからぬ税金が投入されていることを忘れてはなりません。SLIMの偉業は私たちのお金で成し遂げられたのです。10年で1兆円ともいわれる宇宙戦略基金も当然その出所は税金です。そして、宇宙戦略基金が掲げるテーマの多くは月探査・月開発に関連したものです。
■まとめ 〜未来に向けて、過去を見つめ直せ〜
SLIM月着陸成功から1年。特に宇宙開発界隈では華やかなムードが漂うことと思います。
私も、あのとき現場(宇宙研の記者ルーム)にいた人間として、私自身の人生の一部であった月着陸が実現できたことを何よりもうれしく思いました。
ただ、だからこそ、過去をしっかり振り返り、次に向けて進まなければなりません。
そして、どのようなことにも「もしも」ということを考え、事前のプランを考えておかなければなりません。これは宇宙開発においてはごくごく当たり前の哲学ですが、またついつい忘れがちになることでもあります。
日本には「勝って兜の緒を締めよ」という言葉があります。
勝って浮かれるのではなく、改めて自らを見つめ直し、次の戦いに備える。
私はかつて、「はやぶさ」成功のあと、同じ言葉を使いました。
「はやぶさ2」がうまくいったのはそのせいだとはとてもとても言いません。でも、その気持ちはミッションに携わる人、誰もが持って欲しいのです。
そして、私たちは宇宙開発と全く無関係ではありません。
みなさんが払う税金の一部が、SLIMを含めた宇宙開発に投入されています。
みなさんが勤める企業が、ある日宇宙開発に参入するかも知れません。いや、もうしているかも知れません。
宇宙開発は誰かえらい人がやるもの、そういう意識を捨て、私たちが自分たちのこととして関心を寄せること。
SLIMの成功は、そのような意識を持つよい機会だと、編集長(寺薗)は考えます。
- SLIM (月探査情報ステーション)
https://moonstation.jp/challenge/lex/slim