アポロ計画の概要

■人間を月に送るという、史上最大の科学プロジェクト

アポロ計画は、人間を月に送るという、科学史上、さらにいえば人類史上でももっとも大きなプロジェクトといえるでしょう。
アポロ計画は、アメリカによって進められたプロジェクトです。しかも、1961年のケネディ大統領による宣言から1969年7月のアポロ11号による初の人類の月への到達まで、わずか8年ちょっとという時間で成し遂げられたという点も特筆すべきでしょう。
アポロ計画に費やされた予算は現在のお金に換算して約12兆円ともいわれています。関わった人員はNASAだけではなく関連会社まで含めると40万人ともいわれています。文字通り、アメリカの産官学(軍)、全ての力を結集して行われたプロジェクトが、アポロ計画だったのです。

■米ソ冷戦をきっかけとし、宇宙開発における優位性を誇示する

アポロ計画のきっかけは、米ソ(アメリカとソビエト連邦=ソ連(注1))冷戦にあります。
アメリカとソ連が、互いに大量の核兵器を持ち合いながら、両者ともに軍事力を誇示して睨み合う(しかし、実際の戦争は起きない)という「冷戦」。しかし、それは核兵器という力の微妙なバランスで保たれていました。
1957年、ソ連は世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げます。ソ連は宇宙開発における力を示すと共に、核兵器を運搬できるミサイル、それにつながる宇宙開発の技術力をもアピールしたのです。
宇宙開発分野で圧倒的に遅れていたアメリカがソ連に追いつき、逆転するためには、大きな目標を示す必要がありました。それが「月」だったのです。

1961年5月、ケネディ大統領は有名な演説を行います。曰く、「アメリカは1960年代に人を月に送り、無事に帰還させる」。当時、アメリカは月に人を送ることができるロケットも、宇宙船も、さらにいえば開発技術も存在していませんでした。しかもその1ヶ月前には、ソ連が再び宇宙開発における「史上初」を達成します。ガガーリン宇宙飛行士による、史上初の有人宇宙飛行です。
人間を月に送る計画は「アポロ計画」と名付けられ、検討が始まります。しかし、いきなり人を月に送るというわけにはいきません。段階を踏んで技術を開発すると共に、未知な部分、危険な部分を解決していく必要があります。

人間を月…宇宙へ送るために、アメリカは有人宇宙開発に力を注ぎます。最初は人間を宇宙へ送る「マーキュリー計画」、その次には、アポロ計画において必要となる各種の技術開発を想定した訓練を行う「ジェミニ計画」。この2つの有人宇宙開発計画で実績を積み、着実にソ連を追い上げ、そして追い抜いていきました。
一方、月への到達にはロケットの開発も必要です。そのためにアメリカは巨大ロケット「サターンV」(サターン・ファイブ)を開発します。高さ111メートル、総重量3000トンという桁外れのロケットで、3人の宇宙飛行士を月へ送り込むと共に、帰還に必要となる宇宙船も含めて打ち上げるというプランを立てました。
さらに、月自体の理解も必要でした。1960年代初頭、月に関してはまだ科学的な理解が圧倒的に不足していました。表面や月周辺の状態もほとんど理解されていなかったのです。このため、着陸地点の選定や表面の状態などを調べるための無人探査機が次々に打ち上げられました。表面の写真を撮って最後は月面に激突する「レインジャー計画」、軟着陸を行って表面の様子を確かめる「サーベイヤー計画」、月を周回しながら表面の様子を調べる「ルナーオービター計画」が実施されました。

■12人が月を歩き、月についての科学的理解が進む

大量の人員と予算を費やし、同時並行で必要な技術や知識の獲得を行った結果、アポロ計画は1960年代後半までに実現のめどが立ってきました。しかし、あまりにも急ぎすぎた計画は、悲劇的な形で牙をむくことになります。
1967年1月、有人での打ち上げに向けて試験中だった宇宙船が火災事故を起こし、3名の宇宙飛行士が亡くなるという悲劇的な事故が発生しました。原因究明の結果、急ぎすぎたがゆえの数多くの技術的な不備や欠陥が指摘されました。また、巨大な予算を支出するアポロ計画に対する疑問の声も噴出しました。

しかし、NASAは原因を究明した上で対策を綿密に施し、1968年10月、アポロ7号による有人飛行にこぎつけます。その年の12月にはアポロ8号による月周回飛行を実施、準備は最終段階へと入ります。
そして1969年7月20日、アポロ11号が月面に到達、ニール・アームストロング船長が月面へ第一歩を記します。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍である。」この言葉は世界史に刻まれる有名な言葉となっています。

その後、アポロ計画は科学的な色彩を濃くしていきます。当初の目的が「月に人を送り込むことでソ連を技術的に上回ることを示す」ことであっただけに、11号でそれが達成できたあとは、それ以外の目的が重要になってきたからです。
アポロ11号から17号までの6回の探査(13号を除く)、合計12人の宇宙飛行士が月面へ降り立ちました。月面では岩石・土壌のサンプルの採集や各種科学機器の設置を行い、月を科学的に理解することを目指しました。
一方、1970年4月にはアポロ13号が月へ向かう途中に爆発事故を起こし、宇宙飛行士が辛くも生還するという一幕もありました。目標を達成したアポロ計画に対し、巨額の予算を費やし続けることについて国民や政治家の消極的意見が多くなり、1970年1月、アメリカはアポロ計画を17号で打ち切ることを決定します(当初は20号まで予定されていました)。
1972年12月、最後となるアポロ17号が月に打ち上げられ無事帰還、アポロ計画は終了します。以来、人間は月面に足を踏み入れていません。

アポロ計画は冷戦における軍事力、さらにはそれにつながる宇宙開発能力の誇示という目的を持っていました。しかし、アポロ計画によって入手できた数多くの科学的なデータから、月の成り立ち、さらには地球と月の関係を知ることができる多くの知識が得られました。科学的な月の理解は、アポロ計画によって飛躍的に進んだのです。
また、巨大な科学技術を進めるためのシステム工学をはじめとして、アポロ計画が生み出した数多くの科学技術は、その後の人類の生活を豊かにしていくことにつながっていきます。
しかし、アポロ計画のもっとも大きな成果は、人類に対して「やればできる」という自信を植え付けたことかもしれません。

(注1)ソ連(ソビエト連邦)。1991年末に体制が崩壊。現在はロシア、ウクライナ、カザフスタンなど15カ国に分かれている。


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