日本の月探査
日本の月探査構想が産声を上げた正確な時期は定かではありませんが、ルナーAやセレーネ計画の基礎となる本格的構想がスタートしたのは1980年代初頭〜半ばのことです。
1970年代から、日本の科学者や技術者達は月探査や月の利用について、様々な可能性を追求してきました。 アポロ計画により得られた種々のデータが続々と公表されるのに相まって、いろいろな研究機関や大学などで活発に研究が行われるようになりました。
やがて学会をはじめとする公の場でも、活発に議論が交わされるようになりました。実際、この頃に発表された月や月探査に係わる論文やレポート、図書の数は極めて多く、現在の月探査計画の礎が築かれました。
このことに後押しされるかのように、1990年には宇宙科学研究所(現 宇宙航空研究開発機構)が将来の月・惑星探査計画に必要となる 衛星軌道制御等の技術を確立することを目的として「ひてん」と名付けられた第13号科学衛星(MUSES-A)を1990年1月に打ち上げ、探査を成功裏に終えています。
その後、1994年7月に宇宙開発委員会によってまとめられた「宇宙開発長期ビジョン」には、「月」が我が国の宇宙開発の中心テーマの一つであることが示されました。
この長期ビジョンの発表は、「月」の幅広い可能性をオールジャパンの体制で追求していくことを明確にしたものであり、宇宙開発事業団と宇宙科学研究所(現
宇宙航空研究開発機構)の共同ミッションとしてのセレーネ計画実現への大きな原動力となりました。 その後、月周回衛星(セレーネ)計画は「宇宙開発計画」における「研究」段階から「開発研究」段階、更に「開発」段階へと着実なステップアップを遂げていくことになります。
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