的川: |
「ふたたび月へ」第2回ということで、去年、第1回をやったわけですが、シンポジウムの名前「ふたたび月へ」は、たいへん好評で、さっきコーヒーブレイクの準備をしていらした係員の方が、「『ふたたび月へ』かぁ。いい言葉だなぁ」と歩いてましたから、一般のウケもいいのかなぁという気がしています。「ふたたび月へ」ですから、3回、4回となると語呂が悪いかなぁと思っていますが、アポロ以来ということで、何とか日本人を月へという願いを込めた言葉です。
このパネルディスカッションは、この前のディスカッションがかなり長引くのではないかという予想がありまして、野村先生が今朝、こんなに座談会ばっかりのシンポジウムって珍しいねとおっしゃっていましたが、まさしくその通りで、長引いた場合のクッションとして多少機能しなければいけないと、準備した側では考えていたようです。パネルディス「クッション」ということでですね、柔軟にやりたいと思います。
パネリストの方をご紹介します。いちばん向こう側からいきましょう。皆さんから向かって左側から、宇宙開発事業団の岩田勉さん。宇宙開発事業団は、皆さんご存知の通り1969年に設立されました。1969年というのは、まさしくアポロの年で、アポロの着陸船が月に降り立った時に、宇宙開発事業団は設立されたと。たいへん縁の深い組織ですね。この年に岩田さんは宇宙開発事業団に入社されました。第一期生ということですね。それ以来、月ひとすじというこしでしょうか。剣道なら相当に強くなりますね、「突きひとすじ」ということで。これくらい長く月の研究をやっている人は珍しいんですよね。月の権威でいらっしゃいます。
その次が三明大蔵さんと申し上げます。この方は57年振りに日本にお帰りになったという、ご本人は浦島太郎とおっしゃっていましたが、カナダに住んでいらっしゃいまして、カナダのトロントにあるサイエンス・センター、このミュージアムのプロデュースをされました。このセンターも1969年に設立されたんですね。その前に4年間くらいかけてプロデュースされて、科学館の総合プロデューサーと肩書きが書いてありますけれども、ワシントンのスミソニアンのエア&スペース・ミュージアムの時にも、設立はその数年後になりますが、その時にもアドバイザリースタッフの一員として、いろいろ活躍された方です。57年振りなんですが、日本語はたいへんお上手で、同時通訳は恐らく必要ないと思います。時々、変な言葉が出るような気がしますけど。組織のことを「クミシキ」とおっしゃっているのを、私、長いことわからなくてですね、ずっとと話して2時間くらいしてやっとわかったということがありました。でも、大丈夫だと思います。よろしくお願いします。
それから高柳雄一さん。テレビでよくご覧になっていると思いますが、NHKの解説委員でいらっしゃいます。「銀河宇宙オデッセイ」とか「スペースエイジ」とか数々の名作をプロデュースされて、そういう関係、特に科学ものの関係で、NHKきっての敏腕プロデューサーとして活躍していらっしゃいます。現在は解説委員をされていらっしゃいます。NHKの解説委員の方で、宇宙を非常に積極的に取り上げていただける、数少ない方ですので、これからも大事にしていきたいと思っております。
ご存知、松本零士さんです。今日は帽子がいつもと違うといって、ちょっと調子が悪いそうなんですが、トレードマークのドクロのマーク、正面に付いております。今日はたいへん心配だったのは、松本零士さん、遅刻されないかなぁとですね。いつもご自分のクルマを運転して来られるので、私、10数回、会議をごいっしょさせていただきましたが、1度も間に合っていらしたことがないという。ですから今日はたいへん心配だったんですが、十分に間に合って来ていただけました。間に合わなければ困ったなぁ、始めるのを0時(零士)にすればよかったかなぁなんていってましたが。月に関する作品も数多く描かれているそうです。それから日本宇宙少年団という組織の団長をされております。たいへんお忙しい創作活動のかたわらで、そういう社会教育というんでしょうか、子供たちの夢を紡ぐために、非常に活躍されています。
こちらもご存知、向井千秋さんです。お待たせしました。日本時間1994年の7月9日に旅立たれて、23日に帰ってこられたんですね。当時の女性の宇宙滞在としては世界新記録を作られました。何をいったらいいのかわからないくらいいっぱいありますが、かかあ殿下のふるさとでお生まれになった向井千秋さんです。
それで肝心のパネルディスカッションですが、シナリオを一所懸命に数日前から考えていたんですが、結局シナリオがないまま臨むことになりました。昨年も私このパネルディスカッションの司会をやったんですが、シナリオを作ってましたら、あまりに皆さん勝手なことをいうんでまとまらなくなりまして、シナリオなんてものは、あってなきがごとしなんだなと思います。今日は科学のラウンドテーブル、それから月利用の可能性のラウンドテーブルという、科学とか技術に非常に重きを置いた話が多かったという記憶があります。そこで、まず今日のパネリストの方々に、自分にとっての月がどういうものかと、心の中の月、自分の思い出の中の月、個人個人の思い出も含めて、そういった月への想いというところから気楽に入っていただいたらいかがかなぁと導入を考えました。
岩田さんからいきましょうか。月についての思い出とか思い入れとか。 |
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岩田: |
月との関係といえば、的川先生がおっしゃったように、宇宙開発事業団に入った年がアポロ11号の月面着陸の年だったというのが思い出ですが。子供の頃から、皆さんそうでしょうけれど、マンガを見すぎまして、「鉄腕アトム」とか松本先生の宇宙マンガとか、うっかり見すぎて宇宙開発に気がついたら入っていったんですが、そのはじめがアポロの月面着陸で、それと入ったオフィス、当時、宇宙開発事業団ができる前の6か月は科学技術庁の宇宙開発推進本部というところだったんですが、毎日予算とか将来は静止衛星を上げるんだという話を聞かされましたけれど、どうも恐ろしいギャップがあるような気がして、どっちかが嘘じゃないかというような。その時、確か静止衛星を打ち上げるのはアポロの月面着陸と同じくらい難しいんだよというような話を聞いて、それじゃあ静止衛星もいつのことか日本から見たらマンガくらいの先かなぁと思っているうちに、とにかく静止衛星はそれから数年後に上手くいきまして、そのあともそろそろ月面の話をしてもいいかなぁと私が勝手にそういう雰囲気を感じたのは、10数年前ですが、うっかり上司に話したところ「ほかをやってくれ」といわれて、それからまた2〜3年経って、いつの間にかほかにもそういう話をする人が出てきまして、それが10年ちょっと前でしょうか、ある程度研究としては流れ出したんでしょうかね。そんな関係でございます。
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的川: |
割りと偶然の動機なんですね。そうですか。三明先生は外国に永くいらして、さっきお話をお聞きしたら、日支戦争、いわゆる日中戦争のことだと思うんですが、日中戦争が始まった時、小学校5年の時に日本を出られたそうです。三明先生、百人一首ってご存知ですよね? 私の得意札に「天の原 ふりさけ見れば春日なる」という、安倍仲麿って人の歌があるんですが、異国で見る月というのは、やはり同じこういう月が輝いているんだろうということをゆたった歌なんですが、外国にいらして、月を見ながらそういうことを感じられたことはありますか? そういうことを含めて月への思いを語っていただければと思います。
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三明: |
変な日本人で変な日本語を使いますから。小学校時代の月の話はあとでさせていただきますが、いま美術とおっしゃいましたけれど、マッカラム先生がビューティーという言葉を使われましたけれど、ビューティーという言葉は「美ユーティー」とカタカナに出来ますから、美しいユーティーということになりますし、それと同時に、最近やっている文化博物館とかでは、2つ言葉が盛り上がっている。1つは、アポロなどいろいろの「ミッション」ですね。博物館なんかでは「What
is your mission statement」というのが非常にいま使われています。もう1つ同じような言葉は「What'your
vision」。ところがそれをカタカナにすると「ヴィジョン」になります。それで、ちょっと変な日本の見方で、ヴィジョンは「美心」、美の心としてもいい。ミッションは「味心」、味の心としてもいい。そういうところから見れば、味だけではつまらない、目だけではつまらない、五感心が重要だという考え方を、いましているんです。五感心となると、西洋にはない言葉だと思います。いまのところ、向井先生の先輩であるマイケル・コリンズ、はじめて月へ行って、彼は月の上には行かなくて周りをグルグル回って、その方が帰っていらっしゃって、しばらくはワシントンの政府の仕事をやらされて、それに退屈して割合い反感を持ったらしい。それからエアスペース・ミュージアムの、ファウンディング・ディレクターとして素晴らしいお仕事をしたんですが。彼は「Carrying
a torch」という本を書かれて、その中に「月から帰って、月を見ると、自分にはイメージとして2つの月がある。1つは子供の時から月のロマンティックなイメージである。もう1つは実際に体験したネズミ色の冷たい石だらけの月である」。この2つのイメージが、何だか彼の心の中では融合、統合されていなかったらしいんで、そのことについて、あとでちょっとお話します。
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的川: |
たいへん印象的なことだったんでしょうね。高柳さん、いかがでしょうか。 |
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高柳: |
的川さんに「これシナリオどうなってるの」と、たぶん2回くらい僕は聞いたと思うんですが、そのたびに「ないんだ」とおっしゃって、じゃあないんなら考えなくていいんだろうと思って来たもんですから、とりとめなく話します。月には尽きせぬ思いがいっぱいありまして、子供の頃、僕は奈良市に住んでいたんです。だから「天の原 ふりさけ見れば」という安倍仲麿の歌は、本当に子供の頃から月をどこか異国の地で見た時に人間が感じる世界かなぁと。恐らく月というのは人間の心の中の風景の非常に大事な位置を占めているんじゃないかと思うんです。
何でこんなこというかというと、このシンポジウムの題がよすぎるんですよ。「ふたたび月へ」って。すぐテレビの番組になるんじゃないかと最初思いましてね。ざっと中身を見たら、ものすごい専門家の先生方がいろいろお話になっていて、ちょっと時間がなかったもんですから今年は諦めたんですが、それでも先ほど午後からお話をうかがっていて、1つ1つの話はとても面白くてとても意義のあることなんですが、たぶんこれ、ここにいる集団以外の方に月の魅力というか、なぜ科学者が月をターゲットにしているかということを訴えるのには、ちょっと損なプレゼンテーションが多すぎるような気がしまして。その辺のテクニックは、あとで時間があったら話してみたいと思うんですが、いずれにしても、ひと月という言葉がありますが、日と月、時間の流れ、しかもサイクリックな繰り返す現象というのは生命にとってものすごく基本的なスタンスで、それに恐らく気付いたのは人間じゃなくて、もっと初期の命のシステムが生まれた時に、恐らく太陽と月っていうのがインプリントしたものなんだと思うんですが、ことほどさように、月っていうのは科学者が対象とする物体であると同時に、人間の存在の1つの分身だと思うんです。そのことをやっぱり、もしサポートを外に広く求めるんだったら、いくらでもいい方があります。いくらでも表現の仕方があります。だからそんなことを、あとで話ができたらなぁと思っています。
いずれにしても僕、月のおかげでけっこう飯を食ってきました。NHKに入って、3月頃になってテーマがないと、必ずヒューストンで月惑星会議のシンポジウムがあって、いまだに何か必ずレポートが出ているんですね。ものすごいインパクトで月が生まれた話とか、南極の氷の中に月から転がり込んできた石があったとか、思わぬテーマがけっこう拾えまして、それでけっこうドキュメンタリーを作って生きてきた人間として、月には本当に数々の恩恵を受けています。で、先ほど科学者が対象とするものを、非科学者にどう興味を与えるかというのは、大事なテーマだと思うんです。去年は教育の話をしたことを覚えていますけれど、その話はお隣の方もご専門のようですので、ぜひ触れていただければと思います。
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的川: |
はい。ありがとうございました。松本零士さん、いかがですか。 |
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松本: |
私の月とか宇宙への思いは、正直いうと支離滅裂でして。いちばん最初というのは「かぐや姫」あたりの、要するに童話とか民話とか言い伝えの中の非常にロマンティックな部分に心を惹かれたところから始まって、途中からは私にとって月というのは、まず月の山を見るという非常に大事なターゲットになりました。子供の時に、親父の老眼鏡と姉の眼鏡やら、いろいろ組み合わせてレンズをたくさん使って月の山を見るということをやったわけです。そのために私は近眼になってしまったと思っています。医者にいっても「たぶん、そうかも知れんね」と。でもしょうがないと思うんです。
そのうちに、子供の頃、本当は私もマンガやSF小説を読みまして、映画も見まして、月へ行くということが、自分の中で本当に大きなウエイトを占めてきたんですが。行くというのは、子供の頃は他愛もないもので、ロケットなり宇宙船で行くという、途中から俺の能力では絵は描けるけど……。今度はアナタ任せになってきたんですね。誰かに連れてってもらうというふうに変わってきまして、いまは月というのは自分にとって「こんなこといってれば、誰か乗せていってくれるかも知れないな」と、それとももっと気軽に行けるようになったら行けるかも知れないと、だんだんターゲットとしての「月への思い」は変わってきました。
物語の中ではずいぶん月を利用させていただきましたので、月に賃貸料か何かを払わないと、具合が悪いくらい使いました。それから想像というのは非常に勝手気ままなもので、宇宙に関するSFにしろマンガにしろ、描く時は相当無責任でよかったんですが、次第次第に、アポロ11号が月に降りたり、その前後の月の様子というのがわかってきてからは、逆に変なことを描くと幼稚園の生徒からも怒られるという事態が生じまして、非常に神経質になりました。ですから数字的なものも含めて、月を含めて宇宙が非常に描きにくくなってきたことは事実です。だからもっと遠くのアンドロメダだとか、遥か遠いところにターゲットを置いて描けば、まだ無責任ですむわけですね。ですから月、火星、金星というのは相当詳しくわかっていますから、たいへんなことになったと思うんです。
ただ私は、自分では月に行きたいという願望が、夢なんですが強烈にありまして、自分の足の裏にゲタをくくりつけて、ニの字ニの字のゲタの跡を山ほど月面にくっつけて遠くから見たら自分の名前になるか日本になるか、そういう足跡を付けてきてやろうというのが願望で、どなたか日本の宇宙飛行士の方で月へ行くことがあれば、黙って歩き回って、地球から望遠鏡で見たら、お名前になるか日本になるか、そのマーキングをしていただきたいと思っています。
誠に他愛ないもんですが。ただ、月にかけた夢というのは自分の仕事の中では激しい駆動力になっておりますので、宇宙というものは自分の人生を左右したものだと考えて、やはり人間は星空を拝むというのは正しいと思うんです。私の場合は星空を本気で拝んでるわけです。「ありがとうございました」と。そこにアナタ様がおいでになったので、仕事になりましたと。実はそんな話を、昨日「徹子の部屋」という番組でする予定で出かけたんですが、話をしたら、何かパンツにキノコを生やした、これになってしまいまして、ほとんど全部これなんですね。だから家へ帰ったら娘と女房の機嫌が悪いんですね。というのは、あれは胞子ですから下宿以来まだ私に付きまとっていて、時々家の中に生えるんだなんていったもんですから怒られてしまいまして。しまった。今度はどこかで宇宙のことをいっぱい喋らないと具合が悪い。そういう苦しい立場になっております。
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的川: |
その月へ行ってゲタの足跡を付ける、最短距離にいらっしゃる向井さん、お願いします。
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向井: |
はい、私にとっての月というのは、いまちょっと振り返ってみると、有人宇宙飛行、そのちょうど歴史の1つの象徴的なエピソードを与えてくれたんじゃないかなぁと思っています。というのはアポロ11号が月に着陸する前、月というのは松本先生がおっしゃったように、やはり私にとっても「かぐや姫」が行く世界、そしてウサギが住んでいる、フェアリーテール、おとぎ話の世界だったんですね。そういう観点で、私だけでなく多くの日本人、多くの人たちはそう見てたと思います。1969年、アポロ11号が着陸した時、ちょうど17歳でした。ですからちょうど感受性の高い時にガガーリンが宇宙に飛び出し、テレシコワが飛び出し、そしていよいよ月に人が降り立つ。その時に私はものすごく興奮して、テレビがなかったんでラジオを聞いていましたが、本当に自分で信じられなかったんですね。あの月に人が降りる、そんなことができるんだろうかと思ったんです。そこの時点から私はまた月に対して、先ほど松本先生がおっしゃっていたように今度は違う対象、そこに人が行ける、科学的にいろんなことをインベスティゲイト、調べていける、そういう対象に変わってきたんじゃないかなぁと。ですからロマンというものの、いろんな見方があると思うんですが、違った意味でのロマンが月に生まれたんじゃないかなと私は思います。当時、私は宇宙に自分が行くなんてことはまったく考えずに、医学という道に進んだわけですが、でも月に人が降りた時のエピソードというのはものすごく衝撃的で、すごいなぁと思いました。
80年代、スペースシャトルが出現したおかげで、より多くの人が宇宙に出ていける。こういった科学技術の発展を考えると、私は本当に感無量になります。私自身がそうですが医者として働いていて、そういう一般の地上で働いている、そんな人を、いよいよわれわれがロケットという素晴らしい技術をもったために、われわれの活動範囲を垂直方向に、宇宙にまで伸ばしていける。そんな時代にわれわれは生きているんだなぁと。で、たいへん幸運なことにちょうど私が、そういう時代に、行けるような年代にピタッとはまったと。そういう意味ではたいへん光栄な機会を得られたなぁと思っています。
そんなふうに見てみると、私、昨年の7月に飛行しましたIML-2ミッション、この時にはもちろん私としても初めての宇宙飛行の体験でしたし、またこの時はたいへん素晴らしかったことに、アポロ11号が月に着陸して25周年の記念すべき日を軌道上で迎えました。ちょうどイーグル号が、25年前に降り立ったという時に管制センターから連絡が入りまして、25年前のこの時間にイーグル号が着陸したと。それは、われわれ乗組員7名、軌道上で非常に厳粛に受け止めるというか、素晴らしい時代だなぁと思いました。
そしてまた私自身がNASAで訓練をしていて思ったのは、例えばいっしょに飛んだドン・トーマスという宇宙飛行士がいるんですが、彼がなぜ宇宙飛行士になりたかったかをインタビューされて答えていたのが「自分が小さい時にアームストロングが月に降り立った。その姿をテレビを通して観た。それがものすごく脳裏に焼き付いていて、自分も大きくなったらぜひ宇宙へ行きたい。そんなふうに思って宇宙飛行士になったんだ」といっているんですね。ですからアメリカでは、そういう有人宇宙飛行士の歴史を目で見てきた人たち、そういう人たちがいま、次の世代の宇宙飛行士として頑張っている。そんな時代なんです。そういうことを考えると、有人宇宙飛行、たかだかまだ35年くらいですが、やはりアメリカの有人飛行の幅の広さというのを感じます。そういった意味でも私は今後、せっかく素晴らしい演題、「ふたたび月へ」ということなんで、いろんな意味で月を、多くの人たちが、人類の共有財産として、例えばそれを見て楽しむ人もいるし、また無人のロケットで調べる人もいるし、有人のロケットで行こうという人もいると思うんですね。そういった意味で共有財産としてわかちあっていける、そういうターゲット、1つのロマンのあるターゲットになるんじゃないかなぁと思います。
私自身、スペースシャトルですから、軌道300kmくらいの、たいへん地球に近いところを周回していましたが、やはり「向井さん、宇宙のどこまで行きたいですか」と聞かれたら、私はぜひ月に行きたいと思います。松本先生といっしょに、ぜひ月に行きたいと思います。それはやはり自分の住んでいるホーム・プラネット、この地球が奇麗に見える位置は、月だろうと思うからです。火星というのはちょっと遠くなりすぎて星の中の1つが地球になってしまうし、やはり私たちが月を見て「奇麗な月が上がっているなぁ」というように、月から私たちが住んでいる地球をぜひ見てみたいなぁと思っています。
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