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アポロ計画 トピックス

2005年1月以降の、アポロ計画に関連したトピックスを記載しています。
写真は全てNASAによるものです。キャプションは以下の通りです。
Photo: NASA


NASA、アポロ1号のカプセルを新しい保存施設へ (2007年2月17日)
NASAは、バージニア州ハンプトンのラングレー宇宙センターに保存されているアポロ1号とその関連物品を、現在の保存施設から約30メートル離れた新しい空調つきの施設に移動させました。これによって、保存環境の向上が期待されます。
日常的な修理はずっと行われてきましたが、カプセルを入れたもともとの安全な保管コンテナも劣化が進んできました。NASAの当局者は、その年数も考慮して、保管コンテナがカプセルを効率的に安全に保管できないと判断したものです。
アポロ1号は、バージル・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3人の宇宙飛行士が乗り組みましたが、ケネディ宇宙センターの発射点における試験中の火災により、1967年1月27日に3人とも焼死しました。もともとはこの計画はAS-204と呼ばれていましたが、事故後クルーに敬意を表し、アポロ1号と改名されました。
アポロ1号の事故調査委員会の指示通り、カプセルはラングレー宇宙センターに保管されています。事故調査委員会の調査報告書での勧告に基づき、デザイン、技術上の改良が行われ、全体的な安全性が向上し、6回にわたるアポロの月面着陸の成功に至っています。

アポロのデータはどこへ行った? (2006年8月15日)
NASAの担当者は、1969年のアポロ11号の記録が収められた磁気テープを、37年経った現在でも捜し求めています。オリジナルのテープはNASAのゴダード宇宙センターにあったと考えられており、1970年代にアメリカ国立公文書館に移すか、NASAのアーカイブシステム内に移動するように要請されましたが、捜索にもかかわらず、NASAはテープが失われたとは考えていません。
テープは、1969年の暮れに、ゴダード宇宙センターから国立公文書館の保管施設に送られました。このような記録の移動は、契約書やメモ、写真や記録データなど、官公庁の文書ではよくあることです。この保管施設には2614箱のアポロ計画のテープが送られましたが、その中にオリジナルのアポロ11号のテープが入っていると考えられます。1975年から1979年にかけて、ゴダード宇宙センターではそのうちの2箱を送り返してもらいました。残った2箱に入っていた記録はアポロ9号のもので、科学者たちは、この中に入っているデータはアポロ関係のものだと考えていました。
アポロ11号の原記録から変換された第1世代のコピーは、アポロ12号から17号の第1世代のコピー及び原記録と同様、現在もNASAのジョンソン宇宙センター(ヒューストン)の情報担当取締役のビデオ保管室に残っています。
約1年半前に、ゴダード宇宙センターでは、NASA退職者やアポロ計画関係者からの要望にこたえて、テープについての内部調査を開始しました。NASAの技術者たちは、テープが見つかれば、最新のデジタル技術を使って今よりもっと品質の高い月面活動の映像を再生できると期待していました。ゴダード宇宙センターの技術者は、オーストラリアにあるハニーサックルクリーク(Honeysuckle Creek)で記録されたアポロ探査のシミュレーションを行った際のデータを再生することができました。このことから、テープが見つかれば、オリジナルのビデオが保存されているという楽観的な見方がなされました。
もしテープが見つかった場合、ゴダード宇宙センターは、アポロ11号のオリジナルテープを再生するための特殊な機器がまだ残っていることを確かめると共に、テープをデジタル複製して、必要な保管、再生が行えるようNASAの記録部門で保存するようにするはずでした。
NASAではまた、国立記録保管センター(National Records Center)からNASAに関連したテープを移すよう事務手続きを行うと共に、ジョンソン宇宙センターから国立公文書館へテープを移す際に、これ以上記録が劣化しないよう、デジタル化して保管するよう、事務手続きを行いました。
労力の限界もあり、アポロ11号では特別に開発された低速のビデオレコーダーが使われ、一般のテレビに映像を流すためには、フォーマットの変換を行わなければなりませんでした。オリジナルの信号は1秒あたり10フレームで記録されており、普通の家庭のテレビで見るためには、これを1秒あたり60フレームの映像に変換しなければなりません。
月面からのデータは、NASAの追跡管制局(カリフォルニア州ゴールドストーン、オーストラリアのパークス、オーストラリアのハニーサックルクリーク)で受信されました。この3つの受信局では、テレビ信号や音声、テレメトリ、宇宙飛行士の生理的データなどを含むオリジナルのデータを受信していました。データは磁気テープに保存され、同時にアメリカのテレビ放映フォーマットに変換されてヒューストンへ送られ、最終的にテレビ放映されました。この信号変換のための装置は残念なことにどうしても映像品質を落としてしまうことになりました。
NASAの記事へ (英語)

ジェミニからアポロ、そしてシャトルまで…ヤング宇宙飛行士引退
(2005年1月14日19:00)
ジョン・ヤング宇宙飛行士 ジェミニからアポロ、スペースシャトルまで、アメリカの宇宙計画と共に43年間にわたって宇宙飛行士を務め、合計6回、835時間にわたる宇宙飛行を経験したジョン・ヤング(John Young)宇宙飛行士が、このほど引退することになりました。
ヤング宇宙飛行士はサンフランシスコ生まれ。模型飛行機を組み立てて遊ぶのと読書が大好きな少年時代をフロリダで過ごしました。読書の趣味は今でも続いており、ヤング宇宙飛行士にいわせると「僕は5歳のころに百科事典を読んだんだ」とのことです。 1962年、海軍のテストパイロットだったヤング氏は、NASAの宇宙飛行士に選抜されます。宇宙飛行士としては第2組めで、通称「ニュー・ナイン」(新人9人組)と呼ばれていました。
最初の宇宙飛行は1965年、ガス・グリソム宇宙飛行士とジェミニ3号に乗り組みました。ジェミニ計画でははじめての有人飛行でした。工学部を卒業したということもあり、エンジニアとしての腕前も大いに発揮されました。
2回目の飛行は、同じくジェミニ計画で達成されました。1966年7月、ジェミニ10号に搭乗します。さらに1969年5月、アポロ10号に司令船船長として搭乗。このときには、次のアポロ11号の有人着陸に備えた、いわば「リハーサル」の飛行として重要な役割を果たしました。
月面を歩くヤング宇宙飛行士 そして、彼自身が月に降り立ったのは、1972年4月のアポロ16号のときでした。左の写真は、ヤング宇宙飛行士が月面に降り立ったところです。「月はとてもいいところだ」というのがヤング宇宙飛行士の言葉でした。「我々が着陸したのは予定より20分遅れだった。月面での時間はとても貴重だったので、とにかく予定に追いつこうと必死だった。」
ヤング宇宙飛行士とチャールズ・デューク宇宙飛行士は、観測機器を月面に設置し、月面をローバで探査し、さらに約90キログラムの月の石を持ち帰りました。

さて、ヤング宇宙飛行士の宇宙での活躍はさらに続きます。1981年、スペースシャトル最初の宇宙飛行であるSTS-1フライト(スペースシャトルはコロンビア号)で、彼は船長を務めることになります。ヤング宇宙飛行士と、パイロットであるボブ・クリッペン宇宙飛行士により、飛行中130もの任務をこなし、55時間にわたる飛行を無事終了しました。 さらに1983年、最初の「宇宙実験室(スペースラブ)」計画であるスペースシャトルのフライトSTS-9に搭乗、他の6人のクルーと共に70以上もの実験を実施しました。 さらにただ飛行するだけではなく、ヤング宇宙飛行士は5回のバックアップクルー(何かあった際の交替搭乗員)にもなりました。
1973年からはNASAの宇宙飛行士部のスペースシャトルグループのグループ長を務め、さらに翌年からは宇宙飛行支部長に就任します(1987年まで)。その後は、ジョンソン宇宙センター所長の特別補佐官として、技術面や運用、安全に関する助言を行いました。1996年にはジョンソン宇宙センターの副所長(技術担当)として、技術や安全に関する責任ある地位に就くことになりました。
また、ヤング宇宙飛行士は、6つの名誉博士号、NASAの功労賞をはじめとして80以上の賞を受賞しています。さらに1988年には、アメリカの航空宇宙殿堂入りを果たしています。
この輝かしい経歴にも関わらず、彼は謙虚にこう言っています。「私は幸運だったと思う。」いちばん忘れられない時期のことについても、ただ一言「私は何もかも好きだったんだ。」
NASAの記事へ (英語)

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