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月を知ろう

月に関する研究発表
6.有人宇宙活動の社会的意義
評論家 立花 隆

今日はいろんな先生方からたいへん楽しい夢のようなお話をたくさんうかがったんですが、僕はこういう夢がとても大事だと思うんです。アポロ計画のことを考えますと、いまから振り返りまして、アポロ計画のスタートからアポロ11号までの期間は本当に短いんですね。本当に10年くらいでやっちゃうわけですが、あれがどうして可能であったかといえば実はアポロ計画がスタートするずっと以前の前段階が物凄く長くあるわけです。アポロ計画というのは実質的にフォン・ブラウンのチームがやったわけですが、彼はよく知られているようにナチス・ドイツでV2号ロケットを作ったわけですけれども、実はそれ以前からフォン・ブラウンのチームは、ちょうどいまいろんな先生方が語ったような宇宙に対する夢というのを、みんなで語り続けていたわけです。その時代に本当にアポロ計画のような計画を、誰もまったくそういうことを信用しない、そんな本当に夢物語というようなことを、青年時代のフォン・ブラウンたちが語りあっていた。それが戦争に負けてアメリカにわたって、いろんな有為転変のあと、思いがけないチャンスを与えられて、あれを一挙に実現に移すことができたわけです。

今日いろんな夢を語ってくださった先生の中で天文台の海部先生がいらっしゃいますが、僕は海部先生の野辺山天文台の電波望遠鏡の開発過程を実はずいぶん前に取材しまして、あれは本当に驚くべき望遠鏡なんですが、あれも本当のスタートの時は誰もあんなものができるとは、とても夢にも思わないような、本当に夢のような話を大風呂敷を広げて、特に海部先生のお師匠さんの森本さんという、有名な大風呂敷な先生がいらっしゃいますが、あの方は本当に、そういう大風呂敷にいろんな人を巻き込んで実現しちゃうわけですね。今日も月面天文台の話を聞いていまして、森本先生はもう引退していらっしゃいますが、海部先生は大風呂敷だけでなく、たいへん実行力のある方で、ハワイのあれをどんどん作っていらっしゃいますが、恐らくいずれああいう夢が必ず実現する時が来るんじゃないかと思うわけです。

こういう夢を語ることが特に必要なのが、さっき水谷先生がコロンブスの時代の話をしましたけれど、宇宙開発というのは大乗的にはやはりコロンブスが語ったような夢を実現するのと非常に似たものであるわけです。あの時代にはコロンブスは自分の夢にスペインのイザベラ女王と王様と、あのふたりを巻き込めば、彼らをパトロンにすることができれば自分の夢を実行に移すことが可能だったわけです。ところが現代の宇宙開発というのは、王様とかそういう連中を夢に巻き込むだけでは十分でない。現代社会においては、やはり王様がパトロンになるのではなくて、国民全体がパトロンになる。どうしてもこういうものは税金を使ってやるわけですから、納税者全員を上手く夢に巻き込まなければ、実行に移せないわけです。その時、そういう夢に、いかにして国民の大多数を巻き込んで「なるほど」と思わせるかという、そこのところに僕は宇宙開発の未来がかかっていると思います。

そこで、有人宇宙開発という今日の論点に入っていきますが、これからの宇宙開発は有人か無人かという議論はこれまで何度も繰り返されましたし、これからも何度も出てくるテーマだと思います。日本の宇宙開発においては、かつては有人の「ゆ」の字も宇宙開発政策大綱等で出せなかったわけです。しかし、この前の政策大綱から有人に必要な基盤技術の獲得を目指すという形で、本当におずおずながら有人という言葉を出してきたというところです。今度の新しい長期ヴィジョンの中では、非常に慎重な言い回しながら、有人というのも日本の宇宙開発が目指す方向であるという立場を、ある程度ハッキリ出しています。これは長期ヴィジョンのレポートですが、ご覧になった方はご存知かも知れませんが、この後ろの方にいろんな資料がついていまして、僕がひとつビックリしましたのは、この中に世界各国のこれまでの「有人宇宙滞在実績」というグラフがあるんです。これを見ますと驚くことに、これは1992年末までなんですが、このあと日本には向井さんの有人実績が加わるんですが、それをプラスすると日本は何と世界第5位の有人宇宙活動実績を持ってしまっているんです。もちろん世界5位といっても、1位と2位のロシアとアメリカに比べれば2ケタもオーダーが違うわけですが、いつの間にか有人の「ゆ」も言い出せなかった国が世界第5位の有人実績を持つ国になってしまった。これからも日本は確実に「有人」を日本の宇宙活動の中に組み込んでいく時代が既に来ているわけです。しかし、とはいっても、秋山さん、毛利さん、向井さん、3人はすべて乗せてもらっただけでして、有人の一貫技術はいまだにアメリカとソ連しか持っていないわけです。

今後の日本の宇宙開発を考えた時に、今後も乗せてもらう立場の有人で行くのか、あるいは独自の有人一貫技術を目指すのか、そのへんのところが大きな問題になってくると思います。どちらかというと、有人一貫技術はとても無理である、そんなのはできっこない、だいたい日本の限られた宇宙予算でそういうものに大きな金を使うと他のところがへこんでしまうから、そういうことはやらない方がいいというのが、ほぼ恐らく日本の宇宙関係者の大きな意見だろうとは思います。しかし僕の個人の意見としましては、やはりもう少し日本独自の有人を、ある程度目指すべきではないかと考えます。その理由はいくつかありますが、今日はそれを喋ってみたいと思います。

ひとつは特に、なぜアメリカとソ連の宇宙技術が、これほど他の国と比較して段違いのものになってしまったのか。これにはもちろん歴史的ないろんな理由があるわけですが、僕は見逃せない大きな理由のひとつは、やはり米ソがあくまでも有人でやってきたから、有人でやってきたことによってあれだけの技術的な飛躍が実現できたのではないかと思うわけです。そもそも、いちばん最初はスプートニクから始まるわけですが、スプートニクからガガーリンに至る、あの過程の中に僕は物凄く大きな飛躍があったと思います。スプートニクは実際ソ連が現実にミサイルとして開発していたロケットの先端の弾頭の部分に、本当に小さな発信機を付けただけのものです。スプートニクまではミサイル派生技術といっていいような宇宙開発でしかなかったわけです。あのあとソ連がもし、人間、有人の宇宙進出を目指さないで、スプートニクの発展形、スプートニク2号・3号という形で以後の宇宙開発を考えていたら、いまとはまず全然違うものになったと思います。そうやって人間が有人技術に、あそこからガガーリンに行くことによって何が違ってきたかというと、それはいちばん大きな違いというのは僕は意味的な違いだと思います。

つまりスプートニクは、言ってみれば人類が物をできるだけ高く遠くへ放り投げるのと同じようなことです。しかしガガーリンになって人類自身が宇宙へ出て行くという、それを目指すということは、人類自身が宇宙へ進出するという主体的な行動なわけです。言ってみればリモコンでオモチャの飛行機を飛ばすのと、飛行機を自分自身で操縦して空へ出るのと、それぐらい大きな違いがあったと思います。そうやって人間自身が外へ出るというのが宇宙の新しい目標になった時に、スプートニクの時代にはもっぱら世界には新しい宇宙技術を人類が獲得したことに対する喜び的な共感というよりは、むしろソ連という得体の知れない国が、あれはもう事実上のミサイルだと、スプートニクがアメリカの上を飛んでいる時に、いま水爆があれから落っこちてきたらどうするみたいな、そういう恐怖心であの開発を受け止めたアメリカ人の方が多かったし、また世界的にも共感よりむしろソ連に対する恐怖心みたいなものがスプートニクの段階では非常に強かったわけです。しかしガガーリンが空を飛んだ時の世界の反響はまったく違ったわけです。これはもう人類の一員が宇宙へ行ったということに対する物凄い共感というものを呼び起こしたわけです。ガガーリンはソ連の英雄から人類の英雄へと、そこで変わったわけです。

やはりそれは、そこへ人間が行ったことによってもたらされたインパクトの大きさの違いというものだと思います。それが単なる宇宙開発を「モノ」の発展形から人が主体的に出て行くものに変えたことによってもたらされた大きなインパクトであるわけですが、その他にやはり、有人にしたことによって物凄い大きな違いが出たのは、非常に開発する側が高い信頼性を持った技術を開発したことだと思います。やはり有人である限り、失敗というのは絶対に許されないことであるというのは、その当時から有人に関する技術者の第一に念頭に置いていることだと思いますが、日本のように、有人というのは遥か遠く自分たちが直接関係しないというレベルだと、どうしても信頼性の問題で一種の気の緩みが僕はあるんじゃないか。例えば、この前の「きく6号」の問題にしても、あれがもし人が乗る宇宙船を設計し、それを打ち上げるというつもりでやったら、とても恐らくああいう許されない失敗が起こるわけはなかったろう、どうしてもこれは有人ではない、ただの試験衛星であるという一種の弛みといいますか、それが背景、心理の根本のところにあったのではないかという気がします。あの時には「きく6号」を何とかして立て直そうとして筑波でいろいろやっていた技術者の方に電話で取材して、いろいろと話を聞きまして、僕はそれをやりながら、この前の「アポロ13号」のテレビ番組を何人かの方はご覧になったと思いますが、僕はまさにあれを思い出した。我々が直面しているのはあれと同じ場面だと思って必死で頑張ったけれども、もうどうしようもなくズルズル燃料が切れてって、13号の時も酸素がどんどんどんどん消えていくという時に、地上のスタッフたちが、目の前で血管を切り裂かれた人間の血がどんどん流れ出しているのをどうしようもなく見てたような心境だと言いましたが、あれと同じ心境になったと言っていました。 しかしそうはいっても、やはりアポロ13号を立て直した人たちと、どうしても「人が乗っていない、これはモノにしか過ぎない。本当に決定的に取り返しがつかない失敗ではない」という意識が、やはり有人でない限り、どうしても拭いきれないものがあったんじゃないか。やはり米ソ両国は、本当の本当に失敗が許されない有人というもので宇宙技術というものを開発してきたから、今日あれだけ段違いの技術を開発することができたのではないかという気がするわけです。ですから日本も本格的にやろうと思うなら、やはり有人をきちんと目標においてやらなければならないじゃないか。

それからもうひとつ有人を目指すべき理由として、有人でやらない限り得られない技術というものがあるわけです。それは今日の大坪さんの話にあったような生命維持技術、特に閉鎖生態系の技術、これは全部無人でやる限りにおいて必要ないわけです。やはり生命維持関係の技術というのは、どうしても有人でやらない限り本当の本気の開発にはなかなかならない。生命維持関係の技術というのは宇宙関係技術の中でも、僕は開発する意味合いにおいても非常に大きなものがあると思いますが、それはやはり有人というものを視野に置いた宇宙開発でなければ真剣な取組みがないだろう。いま日本でも徐々にやる必要がありますが、予算の付き方から言っても何から言っても、まだまだネクスト・ステップへの初めというレベルであるわけです。

それからもうひとつの大きな問題は、先ほど言いましたように宇宙開発というものが持つインパクトと言いますか、持つ意味合いと言いますか、そもそもなぜ人間が宇宙へ行くのかという、その目的の問題が、この有人を目指すか、それとも無人ですませるかという問題の非常に大きな根本のところに関ってくるんじゃないか。やはり有人でやる限り、有人で宇宙へ進出する場合には、人間が宇宙というものを人間の活動圏の中に組み込む、人間の活動圏というものを宇宙へ広げるという、そういう主体的な宇宙への進出が、そもそも宇宙へ行く目的であるということになるわけですが、有人ではない限り、宇宙は利用の対象でしかないわけです。

人間が有人で行く場合においても、実は人間の活動圏の拡大を目指すという意味合いの他に、人間の方がより効率的である、有効であるという立場で有人という方向を目指すという考え方があって、実は長期ヴィジョンの一部にも、それが有効である限り日本も有人を目指すべきであるという書き方がなされていますが、この場合には、本質的には人間が宇宙へ行くことが重要であるというよりは人が行くことが便宜的選択としてより実用的である、より有効であるという考え方に立つのだろうと思います。その意味合いにおいてもある程度、有人というのは意味のあることで、先ほど純無人建設による有人基地の開発というのが、恐らく効率的に言って、かなり無理があるんじゃないか、やはりどうしても人間を送って、人間が相当の機械技術を使いながらやるという方向にしないと、恐らく経済的にも技術的にも、あれはちょっといまの計画のスケジュールでは恐らく実現できない。やはり人間を組み込んで人間自身が有人基地を建設するという方向に、いずれ行かざるを得ないのではないかという気がします。

しかしそういう効率的・実用性の方向からの有人を目指すことよりは、僕はいちばん大事なのは、そこに行くのが人間であるという、その意味合い。それがなぜ大きな意味を持っているかというと、人間というのは、あらゆる動物が実はそうなんですが、自分の種、同じ種のものに対して動物は物凄い関心を持つわけです。自分以外の種に対しては関心のレベルはこんなに違うわけです。人間も他の人間が何かやっているということに対しては物凄く大きな共感を持つし、他の人間がやっていることに対して感情移入を物凄く強く持つわけです。これは例えばアポロ11号が月着陸する時、ちょっと年とった方はだいたい記憶なさっていると思いますが、あれは世界中の相当分の人間がテレビ中継をみんな手に汗を握りながら見たわけです。ところが、それほどずれていない時期にソ連が「ルナホート」みたいなものを送り出して、あそこで無人の機械をガチャガチャやるわけです。そういうのは誰も手に汗を握るという気持ちで見るということはないわけです。これはやはり、そこに人間が行って人間が何かやっているという、そこにいるのが人間だという、まさに顔がある特定個人、それが何らかの意味で自分が知っている人間であるという関心があってはじめて、あれだけの大きな関心が呼び起こされたわけで、それは日本の宇宙開発への日本人の共感の歴史を見ても、秋山さん以前、毛利さん以前、向井さん以前の日本人の宇宙に対する関心と、あの3人が立て続けにやったいまの宇宙に対する関心とでは本当に質的・量的に圧倒的な違いがあるわけです。これまでもアポロ計画なり何なり人間の宇宙開発の歴史は続いてきたけれども、日本の宇宙開発に対する報道の量というのは、日本人が行ってからではまったく違うレベルのものがあったわけです。そういう報道量があったことによって、つい最近どこかの新聞が調査していましたけれど、子供が将来何になりたいかという調査の中で宇宙飛行士が将来なりたい職業の、確かトップ4、5位に女性も男性も入ったわけです。やはりそれぐらい大きな関心を国民全体、特に子供たちにあれを持たしたというのは、日本人自身がそこに行っているという、それをマスメディアが伝え、大きな国民的な関心を呼び起こしたことだと思うんです。

先ほど言いましたように宇宙開発というのは、凄まじい巨額の予算を必要とします。そういう予算は、やはり国民的合意、少なくともそういうことにそれだけのお金を使うという共感なしには、今後の宇宙開発はまったく進まないわけです。そのためにも、どこまでも無人でやるということではソ連の「ルナホート」程度の関心しか呼び起こさないのであって、やはりどこかで日本人自身が宇宙へ、日本人自身の手で行くんだというキッカケがあった時に初めて、本格的に日本人全体が日本の宇宙開発に対して、大きな予算を使っていくということに対して、みんながコンセンサスが出てくるというか、そういう可能性が出てくるんだろうと思います。日本の宇宙開発の予算の少なさが、これまで日本の宇宙開発のいちばんの桎梏であったわけですが、それに対して、先ほどいいましたように有人なんかやると、少ない予算の取り分がもっと少なくなるというような内向きの考えで宇宙関係者が行くんではなく、むしろ有人を目指すことによって一挙に日本の宇宙開発の予算全体のパイが広がるんだという方向で行かない限り、日本の宇宙開発の大きな発展は恐らくないと思います。

そして、さっき言いましたように有人を目指さない限り、宇宙開発の視野に入ってこない重要な技術として、生命維持関係の技術・閉鎖生態系の技術・いわゆるセルス関係の技術があるわけです。この関係というのは、宇宙開発はいろんな目的を持っていますが、宇宙開発の主要な目的のひとつに、英語で言うと「ミッション・トゥ・アース」、つまり宇宙へ行くことによって地球をより良くし、地球をよりよく守ることができるようになるんだという側面があるわけです。一般的に宇宙開発に「ミッション・トゥ・アース」、地球のための宇宙開発というものがあるんだという時に、普通その中に勘定に入れているのは、軌道から地球を見ることによって初めて地球がトータルに見ることができる。いろんな波長で地球を観測すると地球の自然の姿が、人為的な活動を含めて非常によくわかるわけです。しかし「ミッション・トゥ・アース」の技術の中には、そういう観測することによって得られる地球に関するより深い知識だけではなくて、いったい地球というものがそもそもどういうメカニズムになって地球の生態系を上手く維持しているのかということを調べる要素が入ってくるわけです。非常に重要なものとしてあるわけです。その面で、やはりいちばん重要なのは僕はセルス関係の技術、つまりミニ地球を作ってその働きを見る。地球と同じエコシステムが本当にできるのかどうか、それをやることによって地球のメカニズムが本当にわかってくるんじゃないかと思います。そこのところを本格的にやらない限り、これからの宇宙開発を目先、10年20年という単位で考えるだけではなくて、さらに100年、あるいは1000年、目先1000年を考えた、非常に長期的な人類の宇宙進出を考えた時には、どうしても必要な基盤技術になってくるわけですが、それがあくまでも無人でやっている限り日本はそこの技術に本格的に入っていくことはできないだろうと思います。

あまり時間がありませんので話をどんどんはしょりますが、実は来年の日本の小学生の国語の、確か4年生か5年生用の教科書に、私が昔「科学朝日」に書いた文章が収録されることになりまして、人類にとって宇宙時代というものをどういう風に考えるかということを非常にわかりやすく書いたものなんですが、その中で私は、大雑把に言うとだいたいこういう意味のことを書いたわけです。人類はこの地球環境の中で、何十億年の地球の歴史の中で本当につい200万年くらい前に突然、進化史の中で生まれたわけです。しかもそれは人類の先祖の先祖の先祖ぐらいのあれが生まれたわけで、本当の我々の直接の先祖はたかだか30万年ぐらい前にしか発生していないわけです。そういう物凄い長い歴史の中で、いま人類は生まれ育った地球環境の外にちょこっと首を出すという経験をしたわけです。これはちょうど、昔、水の中で生まれ育った生物がちょこっと陸に出て戻る、そういう両生類に進化したような段階である。この宇宙の中で確実に宇宙人と言えるのは、実は我々地球人しかいないわけです。我々は我々を地球人だと思っているけれども、我々は同時に宇宙人でもあるわけです。しかし現在の時点というのは宇宙的なタイムスケールの中での人類の進化というものの中から考えた時に、初めて原地球人が宇宙両生類に、いまちょうどなったところであると。このまま宇宙進出をこの程度で止めてしまうのは、宇宙両生類のままで留まっていこうという選択になるのであって、本当はもともとポテンシャルには人類は宇宙人なのであるから、宇宙全体を人間の活動圏として考えるような将来を本質的には持っているんだと。それを忘れて宇宙進出をやめる人間というのは、水の中に留まり、あるいは両生類のままに留まった生物たちと同じようなことになる。我々の正しい選択は宇宙両生類になることではなくて、宇宙人を目指すことにあるという文章なんです。これが小学校の先生方のたいへん共感を呼びまして、ぜひ教科書に入れてくれというので来年からは小学生がそういう文章を読んでこれから育ってくるわけですね。これから小学校の生徒の間で恐らく「お前は宇宙両生類程度の人間だ」と、そういうことをゴチャゴチャいうような世代がこれから出てくるわけです。

そういう意味で我々は、いまのところ考えられているのはせいぜい数十年単位の未来、せいぜい半世紀くらい先しか一般には考えられていませんが、やはり人類がこれから千年万年先にいったいどういう可能性を持っているのか、その中で人間がどういうことをしていかなければならないのかということまで、つまり宇宙的スケールで、現在の宇宙開発を位置付けて考えていかなければならないだろうと思います。

確かアポロの絶頂期の時には、そういう非常にスケールの大きい宇宙の夢がたいへんたくさん語られていたわけです。前からやっている宇宙関係者の方はご存知のように、あの頃は「宇宙コロニー計画」という、ラグランジェ・ポイントに物凄く巨大な宇宙コロニーを作るんだという、そういう計画がたくさん語られていたわけです。今日語られた夢より遥かに大きなスケールの夢が語られていたわけです。そういうものは、いまは、ただの夢物語として捨てられているわけですが、しかしあれが本当にただの夢に過ぎないのかと言うと、決してそうではないわけです。今度の長期ヴィジョンの中でも、冷戦時代が終わって、いままで宇宙開発をドライブしていた米ソ両国の軍事的に役に立つ意味での宇宙開発という要因がなくなったところで、何となく世界全体の宇宙開発の予算が下がってきまして、だんだんポテンシャルが落ちた状態にありますが、こういう状況というのはむしろ、我々の宇宙開発にはいい状況であって、冷戦時代、世界の軍事予算がどれぐらい使われていたかというと、だいたい500兆円/年間使っているわけです。今日の計画の中で月計画はちょっと安い見積もりで、あれが数兆円でできるとはとても思わないんですが、それにしても一応数兆円であれができるという計算もあるわけですね。年間500兆円の世界軍事予算を考えたら、屁でもないような金額です。昔、日本の宇宙関係者の中で、やはり大風呂敷が得意な大林先生が、この問題に言及されて、いま世界の軍事予算の1%を毎年投入するだけで、ああいう宇宙コロニーみたいなものは実は簡単にできるんだと、少なくとも金銭的、経済的にはそれくらいのことが可能だとおっしゃっていましたが、軍事予算の1%というと年間5兆円です。それぐらい、もし毎年、宇宙コロニーなら宇宙コロニーを目指すということで投入し続けていけば十分それは実現可能な計画であるわけです。

そういう風に、実は夢物語と思っていることが資金を投入する、人材を投入するということをやれば、人類の前には可能性として広がっているわけです。冷戦時代が終わったことによって、これまで相当の規模のマンパワー、資金の投入がアメリカでもソ連でも急激に落ちていますが、これは方向としては、これまで宇宙開発を引っ張る理念の部分が軍事絡みが相当あったためにそういうことになっているわけで、本来ならばここで、宇宙開発の目的をもうちょっとハッキリとシフトさせて、宇宙への資金投入そのものは高水準を維持する方向に行くことが、経済的にも実は正しい選択なわけです。経済学、特に近代経済学を学んだ方は誰でもご存知のように現代の高度経済社会における最大の問題は、要するに常に投資不足に陥りやすい、投資不足の結果、どうしても有効需要が不足しがちである。そのために公共事業でどんどん金を使うという経済政策が世界中で行われているわけですけれども、日本ではいたるところに音楽ホールとか何か作って、物だけ作るということが盛んに行われていますが、そういう公共事業の投資はいくらやっても日本の未来のパワーにはならないのであって、日本の本当の技術力・経済力の根っこのかさ上げになるような公共事業投資が必要なわけです。日本というのはどうしても資源も何もない国ですから、知的マンパワーが持つ力を非常に高いレベルに維持し続けなければならないわけで、そのためにはやはり高い知的マンパワーを持つ人たちが、やりたい知りたいという意欲を持っていることを中心に公の投資をどんどんやっていかなければならないわけです。

それには宇宙というものは最大の、いちばんいい経済の牽引力、技術の牽引力になるんじゃないか。一国の経済政策のうえでも、あるいは地球全体のこれからの経済社会の牽引車としても意味がある。つまり人類全体がひとつの大きな夢を持って、それを目指すという方向に、どんどん大きな経済投資をしていくことによって、人類社会全体の経済活動の総体を高いレベルに維持していくことが可能になるのではないか。それを引っ張るいちばん大きなものとして必要なのは、いちばん最初に語ったような「あ、それができたらいいな。そのためだったら、みんなで努力したい」という人類全体が共感を持って語れる夢を見ることだと思うわけです。そういうものは、夢を語る能力がある人たちが具体的な形ある夢として人々全体の前に提示する、それがまず必要だと思うわけです。先ほど言いましたようにコロンブスは、そういうものをイサベラ女王の前に必死で自分の持つ夢をずっと、彼女の心を引き込むように繰り広げたわけですね。今日いろんな学者の方が語ってくれたような、こういう夢の語りかけを国民全体、人類全体に向けて、我々がこれまでやってきた冷戦時代におけるような、ああいうものに無茶苦茶な金を使うことをやめて、そのお金をこういう方向に振り向ければこうなるんだという夢を提示していくことが何よりも必要だろうと思います。

時間がなくなりましたので、このあたりで終わります。


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