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カッシーニ/ホイヘンス トピックス

トピックスは過去のものも含め、順次追加されます。
日時に「発表」とあるものは、オリジナルのプレス発表文の日付です。

2007年5月25日 13:00更新
土星の嵐が気流を加速する (2007年5月8日発表)
土星の大気中の高速な気流を起こす源が、土星大気内の巨大な渦(嵐)であることが、カッシーニの科学データの解析から明らかになりました。
NASA・ゴダード宇宙科学研究所のアンソニー・デル・ゲニオ (Anthony Del Genio)氏は、「土星のジェット気流がどう加速されているかという今回の新しい情報は、私たちがカッシーニ到着前に考えていたことと全く正反対だった。」と述べています。デル・ゲニオ氏はカッシーニ画像チームのメンバーで、今回の論文の主執筆者です。今回の論文は、惑星科学の学術誌「イカルス」に掲載されます。
ジェット気流は、大気の流れで、雲を西へ、あるいは東へと運びます。大気中の渦がこのジェット気流を、ちょうどベルトコンベアーの原理で加速させているのです。
「これまではコンベアーのベルト---この場合はジェット気流だが---が渦を強めているのかと思ったが、実は、その全く反対だった。渦がジェット気流を加速させているのだ。」(デル・ゲニオ氏)
「直感的に考えると、嵐の摩擦と引っ張りあいによって、渦の方がジェット気流のエネルギーを取り込んで成長していると考えたくなるだろう。そうではなくて、我々が見いだしたのは、渦がジェット気流にエネルギーを供給しているということだ。」と語っているのは、同じくカッシーニの画像チームのメンバーで、カリフォルニア工科大学のアンドリュー・インガソル (Andrew Ingersoll)氏です。彼は、このようなことは地球でも起きていることは知られていたが、木星についてはつい最近になって確かめられ、土星については全くはじめてだということです。木星や土星については、かつてボイジャー探査機による探査が行われましたが、このような渦と気流の関係を示すようなデータは送られてきませんでした。
今回カッシーニのチームがはじめて、渦・嵐と気流との相互関係を明らかにしました。約10時間(土星の自転周期)おきに撮影した雲の写真から、気流の様子を明らかにすることによって、科学者たちは、気流の両端にある渦がエネルギーと運動量を気流に与えており、それにより気流が加速されていることを確かめたのです。
「渦が気流を加速させていることは前からわかっていた。というのは、気流は同じ方向を向いていて、その方向に運動量を輸送していたからだ。もし渦が別方向に向かって先細りになるようだったら、結論は反対になっていただろう。」(インガソル氏)
土星の南半球の大半をカバーするカッシーニの画像の分析によれば、同じような現象が土星全体にわたって起きていることが考えられます。これにより、土星の東向きと西向きの気流のパターンが、何十年にもわたって維持され、それが科学者によってずっと観測されてきたことの説明がつきます。同じような現象は、カッシーニが木星を通過した際に得られたデータによって、木星でも起きていることがわかっています。地球では、このような現象は、南半球と北半球でみられるジェット気流として知られています。

今回の発見で、木星や土星にみられる帯状の雲についての伝統的な見解を見直す必要が出てきました。
「私たちはこれまで、明るい雲の帯のところは上昇気流があるところで、暗い帯のところは下降気流のあるところだと思っていた。しかし、私たちが観測したように、渦により気流が加速されているとなると、その反対が正解だ。実際、土星でも木星でも、暗い帯のところにだけ雷雲が発生している。そこでは上昇気流が起きていなければならない。」(デル・ゲニオ氏)

ホイヘンスの着陸点を、ユベール・キュリアン・メモリアル・ステーションと命名 (2007年3月5日発表)
ホイヘンス突入機の着陸点 3月14日、叙事詩的な宇宙探査と、ヨーロッパの宇宙開発を生み出してきた偉大な創立の父が、永遠に結びつくことになります。ヨーロッパ宇宙機関(ESA)、宇宙科学に関する国際委員会(COSPAR)、そしてNASAは、土星の衛星タイタンに着陸したホイヘンス突入機の着陸点について、ユベール・キュリアン (Hubert Curien)教授の功績をたたえ、彼の名を冠することに決定しました。
「ユベール・キュリアン・メモリアル・ステーション」(Hubert Curien Memorial Station)と名づけられた着陸点の命名式は、ESA本部で3月13日に行われ、ESA委員会の代表者、キュリエン氏の妻であるペリーヌ・キュリエン (Perrine Curien)氏、そして子どもたちのうち1人が出席する予定となっています。

2005年1月のホイヘンス突入機のタイタン着陸は、人類の宇宙探査の歴史に大きな成功として記録されました(上の写真は、カッシーニの赤外線カメラが捉えたタイタンのホイヘンス着陸地点)。この探査の一部はESAが、NASA及びイタリア宇宙機関(ASI)と協力して行われたわけですが、このESAの関わりは、何十年にもわたって科学的な研究をヨーロッパ、そして彼の母国であるフランスで強力に推し進めた、ある人物を抜きにして語ることはできません。キュリアン氏は様々な役職を歴任しましたが、特に、4人の首相の下で科学宇宙大臣を歴任したことが大きな功績です。
また、1981年から1984年にかけてはESA委員会の議長を務め、ESAのかつての長期プログラム「ホライゾン2000」の策定に大きな役割を果たしました。この中に、ホイヘンスの計画も入っています。
現在COSPARの総裁であり、前ESA科学プログラム部長である(1983〜2001)ロジャー・ボネ(Roger Bonnet)氏は、このようにコメントしています。「キュリアン氏の外交的な手腕は、ヨーロッパにおける宇宙科学の誕生に非常に大きな影響を及ぼした。1985年、ヨーロッパの大臣たちが科学プログラムを策定し、長期にわたって財政的な支援を得られるように決定したとき、彼は中心的な役割を果たした。」
「現在のESA科学プログラムである『コズミック・ビジョン』(Cosmic Vision)は、ユベール・キュリアン氏の遺産を引き継いで描かれたものだ。」と、現ESA科学プログラム部長であるデビッド・サウスウッド (David Southwood)教授は述べています。「彼は、宇宙研究は私たちのような知識に支えられた社会の推進、そして福祉にとって基本的なものだという信念を持って、国家間の協力を進めてきた。このような柱となる思想なしに、今日のような宇宙探査計画が進められるということは信じられない。」
ESA長官のジャン・ジャック・ドルダン (Jean-Jacques Dordain)氏はこう述べています。「様々な面において、ヨーロッパの宇宙への活動範囲を決める際に、ユベール・キュリアン氏が果たした役割はきわめて欠くことのできないものである。キュリアン氏はアリアン・プログラム(ロケット)の生みの親であり、ヨーロッパが独自に宇宙へアクセスする道を作り上げた。そして、70年代終盤に他の国々を説得して、工業契約の『適正な報酬』の原則の下に他の国をESAに加えるのに活躍した1人である。ビジョンを持ち、傑出した能力を持つキュリアン氏は、彼の科学的な能力と、その並外れた人間的、政治的、そして外交的な能力によって、全ての人から高い評価を受けている。従って、彼の名前が地球からはるか離れたとても重要な、彼のおかげで我々がたどり着くことができた場所と永遠に結びつくことは、本当の意味で我々にとっても名誉なことである。」

ユベール・キュリアン氏の略歴
ユベール・キュリアン氏 ユベール・キュリアン氏は1924年10月30日、フランス東部のボゲ(Vosges)地域で生まれました。学生時代にはフランスのナチ・レジスタンスに名前を連ね、その勇敢さは賞賛されました。やがて、パリのフランス高等師範学校 (Ecole Normale Supérieure)に進学し、ソルボンヌ鉱物学研究所に加わり、結晶学の研究の分野に進むことを目指しました。彼は常に鉱物学者と物理学者の共同作業に熱心に取り組んでいました。1949年、パリ大学の講師任命され、1951年に博士号を取得しました。1956年には教授となりました。1968年から1994年まで、政治的な仕事に取り組みながらも、「ピエール・マリー・キュリー・パリ第6大学」で教職を勤めました。科学の面における経歴とは別に、ユベール・キュリアン氏は彼のフランス、及びヨーロッパにおける管理者、及び政治家として意欲や効率性、ビジョンをもって臨んだことで知られております。彼は多くの科学機関に足跡を残しています。1966年から1969年にはフランス科学研究センター(CNRS)の物理担当科学長官となり、1969年にはCNRSの長官となりました。1973年にはフランスの科学研究の再編活動に尽力し、1976年から1984年にはフランス宇宙機関(CNES)の長官となりました。1984年から1993年までは、4つの異なる政府の元で、科学宇宙担当大臣を務めました。
1981年から1984年まではESA委員会の議長を務め、アリアン・プログラムの創設やヨーロッパを科学で結びつけたことは今でも多くの人々の記憶に新しいところです。1994年から1996年には、ヨーロッパ原子核研究機構(CERN)の理事長を務め、1993年にはフランス科学アカデミー会員に選出されました。
彼の業績は名声と賞をもって迎えられました。キュリアン氏は卓越した知識と管理、政治的な能力を持ちながら、それだけでなく、シンプルさ、謙遜、ユーモアのセンス、そして他人の意見を喜んで受け入れるという素質を持っていました。彼は2005年2月6日に死去し、奥様であるペリーヌさん、そして3人の息子さんであるニコラ、クリストフ、ピエール・ルイス氏が残されています。

カッシーニが見た、今までにみたこともない土星 (2007年3月1日発表)
土星と本体が輪に落とす影 土星探査機カッシーニが、これまでにみたこともない土星の姿(土星のはるか高いところから、そして土星のはるか下から)を撮影しました。これまで数ヶ月間をかけて、探査機は次第に軌道を高いところに持ち上げてきており、科学者が夢中になるような視点からの土星本体と輪の写真を撮影することができたのです。
「ついに、私たちが何年も待ち望んだ写真を手に入れることができた。土星のはるか高いところに行き、輪が銅メダルのような土星本体の周りに広がっているのを足元に見ることは、まったく私たちが見知らぬ世界に踏み込んだようなものだ。同じものを見ている感じがしない。本当に息を呑むような光景で、めまいがしそうなくらいだ。」(カッシーニの撮像チームのリーダーで、コロラドの宇宙科学研究所のキャロライン・ポルコ(Carolyn Porco)博士)。
上から見た土星の輪 過去2ヶ月にわたって撮影された写真が1日に公開され、その中には白黒、カラーの写真に加え、カッシーニ探査機が南から北へ、輪の面を横切る際に撮影した写真をつなぎ合わせた動画もあります。また、土星を取り除いて、輪を真上から見た形の、ちょっと冗談っぽい写真も含まれています。
カッシーニの傾斜した軌道は、6月の終わりまでに、再びもとの黄道面(土星の輪の面)を周回する軌道に戻る予定です。

タイタンの北極を飲み込む巨大な雲 (2007年2月1日発表)
アメリカ合衆国の半分ほどもある巨大な雲が、カッシーニ探査機によって捉えられました。この雲は、昨年のカッシーニのレーダ探査により発見された湖の物質が原因であると思われます。
タイタンの巨大な雲 冬側の影に覆い隠されていた雲が、春になったために見えるようになってきました。極地域から北緯60度の範囲にまで覆い隠している雲は、直径約2400キロメートルもあり、ほぼタイタンの極地域を完全に覆っています。
写真が撮影されたのは2006年12月29日で、カッシーニの可視光・赤外マッピングスペクトロメータにより捉えられました。科学的なモデルでは存在が予測されていましたが、これほどまでに詳細が捉えられたことはありませんでした。
「雲が存在するということはわかってはいたが、これほどまでの大きさと構造を持つということにびっくりしている。この雲は、有機物の生成と、それらのタイタン表面とのかかわりについての鍵となる要素かもしれない。」と、探査機のカメラの研究者であり、NASA/JPLの殊勲滞在科学者(distinguished visiting scientist)でもあるクリストフ・ソティン博士(Christophe Sotin)(フランス・ナント大学)は述べています。
12月29日にみえたのと同じ雲は、2週間後にカッシーニ探査機がタイタンにフライバイした際、1月13日にもまだ存在していました。ただし、観測条件は12月よりもよくありませんでした。

昨年、カッシーニのレーダーのチームは、北極付近にある湖が半分満たされ、いくつかは蒸発してしまったようにみえるという報告を行いました。この雲の生成になんらかの関係があると思われますが、この雲はエタン、メタン、その他の有機物でできていると考えられます。この発見は、メタンの雨がタイタンの表面に降り注ぎ、それが湖となって対流し、蒸発して雲を作るという考え方を強めるものです。科学者たちは、このメタンの循環を地球上の水の循環と比較し、「水文(もん)学上の循環(hydrologic cycle)」という言い方をもじって「メタン文学上の循環(methane-ologic cycle)」と述べています。
地上からの観測によると、このタイタンの雲は季節によって現れたりなくなったりするようです。タイタンの季節は1つあたり地球の7年間に相当します。タイタンの大気循環モデルによると、このような雲は地球でいう約25年間にわたって現れ、その後4〜5年にわたってほぼ消失し、また約25年にわたって現れるということです。
科学者たちは、この雲が数年間にわたって存在することを期待しています。季節が変わることによって、この雲と湖が、北極から南極へと移動することを、科学者たちは期待しているのです。観測によると、タイタンの南極には、腎臓の形をした湖が1つしかみつかりませんでした。
「今年は(タイタンへの)フライバイが16回もあるので、この雲の時間変化を追跡できるチャンスがあるだろう。」と、可視光・赤外マッピングスペクトロメータのチームの科学者であり、フランス・ナント大学のステファン・ル・ムーリック(Stephane Le Mouelic)博士は述べています。
JPLの記事へ (英語)

「タイタンにメタンの湖」がネイチャーに掲載 (2007年1月4日17:00更新)
タイタンの湖 2006年7月のタイタンへのフライバイの際に発見された、液体のメタンからなると思われる湖について、このほどカッシーニ/ホイヘンスの科学者たちの論文が科学雑誌「ネイチャー」に掲載されました。
この論文は、2006年7月22日に実施されたレーダー観測から得られたもので、大きな液体からなる湖のようなものがタイタンに存在することを確信させる証拠が得られたというものです。さらに、レーダー画像に擬似的に色を付けた画像により、カッシーニが得たデータについてさらに詳しいことがわかりました。この記事の要点をご紹介しましょう。
湖の特徴について
  • レーダーで暗く写っている点状の模様は、反射率が低いこと、またその形態からみて、湖であると思われる。これはその湖の周辺にある谷や地形的な窪みなどを含む。
  • レーダーで暗く写っている部分は滑らかであり、おそらくは液体、岩、氷または有機物と思われる。レーダーで暗く写っている点状の模様、あるいは湖と思われる地形は75箇所以上発見されており、大きさはさしわたし3キロメートル〜70キロメートルに及ぶ。
  • 湖の中には一部が乾いているものがあり、また一方で液体で満たされている湖もある。一部しか液体で満たされていない湖に関しては、過去に液体で満たされたことがないか、過去のある時点で液体が蒸発してしまったと考えられる。乾いた湖にははっきりとした縁、あるいは壁と思われる部分があり、レーダーの明るさは、その周囲の地表とよく似ている。そのため、液体がないと思われる。
  • 湖が満たされている状態にバリエーションがあることから、タイタンのこの領域の湖は一時的なものと思われるが、その時間的な幅は不明である。
  • 暗い点状の模様のうち、約15箇所は液体で満たされていると考えられるが、侵食の痕跡はなかった。このようなレーダー画像での暗い点状の湖は、地球上では衝突クレーターの跡にできた湖(例えば、カナダのクリアウォーター湖)、または火山のカルデラ湖(例えば、アメリカ・オレゴン州のクレーターレーク)に限られている。こういった湖の入れ子のような特徴、あるいはサイズが小さく限られているという特徴からみて、衝突によってできたということは考えにくい。形状からみて、湖の窪みは火山起源と思われる。
  • 湖の中には急傾斜のヘリや非常に目立つ縁を持つものがあり、縁の地形的な特徴を示すものと思われる。このような湖の特徴は、地下からの浸出により液体がたまった、または地下水の排水湖であるという仮説と一致する。
  • 他の湖は、広がった、貝のような縁を持ち、湖の中央に行くにつれて、レーダーの明るさがだんだんと暗くなっていく。こういった湖は河川流と関係していると思われるが、排水湖(drainage lake)、または地下水による排水湖であると考えられる。
  • しかし、他の湖には曲がりくねった川状の延長部分がみられる。これは地球上でみるところの、洪水によってできた河川谷とそっくりである(例えば、レークパウエルなど)
  • 湖の縁の近くにある明るい点状の部分は、島であると思われる。浮遊する「氷山」であるという可能性は、たいていの物質が液体の炭化水素の上に浮くことがないということを考えると、低いとみられる。
他の観測結果
  • 湖の特徴からみて、カッシーニ計画に携わる科学者たちは、タイタンの表面に現在湖が存在すると考えている。もう1つの可能性としては、これらの窪みや谷は過去に作られたもので、いまは、タイタンの地表で観測されたどんな物質よりも低密度の物質で満たされているということが考えられる。しかし、この領域に風によってできた地形が存在しないことを考えると、低密度物質説の可能性は低い。
  • この北半球に存在する湖は、タイタンの表面と大気との間に液体の循環があることを示す、これまででもっとも強力な証拠である。ただ、凝縮する物質は水以外である。この循環では、湖はメタンの降雨により満たされるか、地下から染み出してくる液体メタンによって満たされると考えられる。
  • タイタンの四季は、土星が太陽の軌道を回る影響で、約29年以上の周期で変化する。タイタンの冬半球にある湖は定常的に降るメタンの雨で満たされるが、夏半球にある湖は小さくなるか、完全に干上がってしまうことが考えられる。
JPLの記事へ (英語)



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